第35話〜魔法使いの家
「じゃ、黒須さん」「バイバイ」
一日中こわばっていた笑顔ではなく、今まで通りの少し恥ずかしそうな笑顔を見せてくれた黒須さんが扉の向こうに消えていく様を見送りながら、こうして黒須さんが俺におわかれの挨拶をしてくれるようになったのが嬉しかったあの頃を思い出してため息をついた。
幸せと言うのは、どうしてこうも長続きしないのだろうか。所詮人間というのは慣れの生き物であって、あまりにも幸せすぎるとその幸せにすら慣れてしまい、新たなる幸せを求める。何を言っているのか自分でも分からないが、要するに俺は黒須さんに笑顔を向けられることをこれまで当然と感じてしまっていたのかもしれない。
俺以外にも笑顔を振りまく黒須さんを見て、恥ずかしながらも俺は嫉妬心すら感じてしまった。今思えば、黒須さんの笑顔は黒須さんの物であるし、俺のためだけの物ではない。それだと言うのに、少し他人より笑顔を見た回数が多いからといって、俺は勘違いしてしまったようだ。
なんともないこと、たとえば今俺の足元に咲いている小さな花を美しいと思うことさえ忘れてしまっていた自分を恥じた。たとえそれが黒須さんの笑顔が本心のこもっていない作り物の笑顔であったとしても、そうでなくとしても俺は少し考えを改めないといけないようだ。それを今日と言う24時間で実感できそうだ。実感することが出来れば、俺はまたあの頃のように黒須さんの笑顔一つで喜んだりできるのだろうか。
「ただいま」
暗い気持ちのまま、すでに日常化した行為の一つである挨拶をこなす。これも見方を変えれば幸せなものに感じることが出来るのだろうか?
「おかえり。あにぃ」
人間、一つの出来事でこんなにも落ち込むものがよくできると少々感心してしまう。それもほんの些細なこと、黒須さんが他のこと楽しそうにしていたわけでもなく、黒須さんが俺のことを嫌いだといったわけでもなく、ただ黒須さんが他の人に笑顔を向けた。それだけなのだ。しかし、今思うとやはり黒須さんが、黒須さんが、と言って俺が落ち込みそうな理由は、黒須さんしかないのだろうか。黒須さんで笑い、怒り、憂い、楽しむ。俺の喜怒哀楽は黒須さん中心に回っているのではないか。と思ってしまうほど俺は黒須さんに依存しているのだろう。これでは俺は自分のために笑うのか、黒須さんのために笑うのかも分からない。
「また無視か、こんの馬鹿あにぃー」
大きく助走を取って俺へと向けて跳んでくる人間ロケットを避けようかと体を反転しかけたが、俺の後ろに有るのは壁なのでおとなしく被弾することにする。
黒須さんたちが仲直りした日にもらったように、相変わらずこいつの蹴りは俺に壊滅的なダメージを与えてくれる。腹部の激しい痛みに吐き気すらも覚えて地にひざを着くが、これも自分で招いたものなのだから仕方がないだろう。普段なら反撃をするところなのだが、憎たらしい妹のおかげで俺の感情は黒須さんのことより自らの体の痛みへと向かってくれているので今回はやめたおいてやろう。
「避けれたでしょ」
跪く俺を見下ろしながら不機嫌そうな声で俺に問いかける花梨。はたから見ても、わがままなお姫様に忠誠を誓う騎士だなんて思いはしないはずだ。だいたい、こいつがお姫様だったならば俺は王子だろうし、こいつがお姫様なら国が滅びそうだ。絶対にありえない。
「まぁまぁ、お姫様に忠誠を誓うナイト様かしら?」
「男は尽くしてこそ意味があるもんだぞ」
ありえないと思ったのだが、わが国の麗しき王様と妃様はそう思わなかったらしく笑顔のまま俺達二人を見ていた。どうせなら大丈夫かとか声をかけてほしいものだ。
「何で避けなかったのよ!」
俺が避けなかった。そんな些細なこ事でさえ花梨は気に食わないらしく、俺に対して怒りをぶつける。何をそんなにいらいらしているのだろうか。アレか?女の子の日でも来たか。
「俺も鈍ったんだよ」
苦しい言い訳なのかもしれないが、何か言ってやらないと引き下がりそうにもないのでいてやる。それに、これは言い訳ではなく本音でもあるのだ。俺は本当に避けることが出来なかったのだ。しかし、当然そんなくるしい言い訳では引き下がってくれるわけもなく、やはりさらに熱くなっていく。面倒な妹だ。
「花梨、なんで祐斗が避けなかったのかを少しは考えたら?」
何もかもを見透かした様子で俺を見て笑う母さんを見て、これ以上ここに居たらばれてしまいそうなので早々に撤退することにする。まったく、あんなに小さいというのにどこにそんな力があるのやら。そうか、アレだろう恐らくあの胸だろうな。母さんの胸を一瞥してから花梨の胸元に目をやる。
「まぁ、遺伝子的には何とかなるさ」
まだ痛む腹をさすることもせずに俺は可愛そうな花梨の頭をぽんぽんと叩いて自室に戻る。本当は物凄く痛いのだが、ここは兄として虚勢を張ってもばちは当たらないだろう。
自室の扉が閉まりきったのを確認してから俺は地面に崩れ落ちる。痛い。痛すぎる。花梨はあのままプロレスラーにでもなればいいんじゃないのだろうか?きっといいところまで行くに違いない。目の前の『最終非武装領域』の最新刊に掲載されていた『新都社ファンタジー』の文字がやたらと大きく見えるのも俺が地面に寝転んでいるからだろう。俺は『新都社ファンタジー』を見て笑いをこぼしながら腹をさする。出来れば痛覚ではなくこの作品を読んだときのように感動で体をしびれさせたいものだ。
と、ふと前髪を揺らす冷たい風に顔を窓に向ける。目の前ではカーテンが夜風に揺られて軽いダンスを踊っていた。床でのた打ち回っている自分とはずいぶんと違うものだ。そんなカーテンに無性に腹が立ち、俺は早速窓を閉めることにする。こいつらも風がなければただの布切れ、踊る事など不可能だ。わくわくしながら窓へと這っていき、ゆっくりと立ち上がり窓に手をかける。と、目の前に広がっていたのは綺麗な星空と、丁度正面に位置する開いたままの窓だった。俺の家のある位置は丁度住宅地なので、隣家は割と隣接している。それはもう隣の家の窓が開いて居たら中の様子が分かるくらいだ。
「黒須さん……」
普通、こういう状況ならば着替えを見てしまった。などのおいしい展開が待っているのが漫画やアニメの話のはずだ。しかし、それは結局は創作上の話。何と俺は見ているのではなく、見られているのだ。まさに現実は小説より奇なり。まさか自分が覗かれていようとは思いもしなかった。さらに、俺がひょっこり窓から顔を出したものだから黒須さんは驚いてこけてしまう。悪いことをした。
「大丈夫?」
「だ、大丈夫です」
せっかく心配して声をかけたというのに黒須さんは急いで窓を閉めてしまう。おまけにカーテンまで閉めて完璧に中が見えないようにされてしまう。別に覗きなんてしないのに、信用されていない。というか覗きをするのはあっちだろうに。そして、黒須さんは頬を赤らめていたが、俺はそんなにもおかしなことをしていただろうか?
俺は、距離にしておよそ3mほど先の封鎖された窓をぼんやりと見つめながらしばし夜風に当たっていた。
「あにぃ」
弱弱しいノックの音にドアのほうを振り向けば、花梨の声が聞こえていた。また、俺に嫌味でもいいに来たのだろうか。しかし、そうだと分かっていてもこのまま放置すれば俺のドアは大破してしまうだろうからおとなしく開けてやることにする。と、言うより俺の部屋は鍵がかかっていないし、入ろうと思えばいつでも入れるしいつもならノックもしないはずの花梨がどうしたというのだろうか。
ドアを開けたというのになかなか俺の部屋に入ってこず廊下で何か助けを求めるかのように階段のほうをチラチラと見る花梨。さては母さんに何か言われたのだろう。
「何か用かな?」
このままではらちがあきそうにないので少し手助けをしてやる。全く持って世話のかかる妹だ。
「……ごめん」
壊れた機会のように沈黙してしまった花梨にどうしたものかと悩んでいたところ、不意に小さな声でそういったのが聞こえた。もしかしたら風の悪戯かもしれない。
「さっきは……ごめん」
「なんだって?」
これも、幻聴なのだろう。花梨が俺に謝るなんて事は地球がひっくり返らないかぎりありえないことだし、これは嘘に違いない。
「ごめんって言ってるのよ」
花梨の大声と同時に世界が反転した。なるほど、世界が反転したのなら花梨が謝ることもあるだろう。そう理解することにした。
しかし、こいつは何を俺に謝るというのだろうか。まさか、今までの無礼か?それとも昔借りたまま返さない金か?
「私が怪我するかもしれないって避けなかったでしょ」
なんともつまらない事で謝ってくるのだと少々あきれたが、気づかれてしまったのでは仕方がない。あのまま俺が花梨のとび蹴りを避けていたなら確実に花梨は怪我をしていただろう。だから避けなかったのだ。別にたいしたことはしたと思っていないし、兄としてこの憎たらしい妹を守ることくらいは当然のはずだ。まぁ、花梨がこの答えにたどり着いたのはきっと母さんの入れ知恵なんだろうが母さんをどうこう言うことは出来ないのでやめておく。
「さて、何のことやら」
あくまでもしらを切り通す俺に、花梨は握りこぶしを硬く振るわせ始めたがすぐにすぐにその力を緩める。全く、誰のおかげでこんなにも丸くなってしまったのやら。
俺はその原因だろう隣家の一室の窓を見つめながらため息をついた。とんだ魔法使いだな、あの家の人は。
「そういえば俺二人三脚の選手になったんだよ」
このまま花梨に謝られたままというのはどうにも気持ち悪いので何とかして話をそらすことにする。俺の失敗談でも聞けばまた元気になるだろう。
「え?」
しかし、花梨の反応は俺の斜め上を光速で走り抜けていった。
「私も出るんだけど?」
残念なことに花梨もあの行事のいけにえになってしまったようだ。
「それはご愁傷様だ」
俺のそんな言葉に、どうしてといった風な表情を見せる花梨をみて不安になる。
「まさかお前、立候補したんじゃ……」
「そうよ? 大河君と出るの」
なんだか嬉しそうに俺に話す花梨を見て俺は隣りの男魔法使いに怒りの炎を燃やし始める。何故だか分からないが気にくわない。奴を許してはいけないような気がするのは何故だ。
「そっちは誰と出るの?」
「黒須さんだよ」
隣りの男魔法使いの窓を睨みながら短く答えてやる。すると花梨も俺の隣りにやって来て黒須さんの部屋の窓を睨み始める。その目はどこか俺に似ているような気がしてならなかった。
「気にくわないな」
「気にくわないわね」
俺達は二人して同じような台詞を口にする。
「そういえば去り際に言ってた遺伝子がどうのってのはなに?」
「希望は捨てるなってこった」
「ふーん」
「まぁ俺は今のままお前のほうが好きだがな」
「う、うるさいわよ」
そして俺達二人はまた無言でお互いの敵の窓を睨み続けた。