第57話〜アップルパイ
「こ、こんにちわ! く、黒須です!」私は白い息を吐きながら寒空の下、ふるえる声で彼の家につけられたインターホンに話しかけていた。今は十一月だし道を行く人は寒そうに体を丸めている。
だからといって私の声が震えている理由が寒さのせいではないことはわかっていた。と、いうか寒いというより今は熱いのいと感じるほどだ。
「はーい待っててねー」
がちがちにかまっている私とは対照的な柔らかな声が彼の家から聞こえてきた。おそらくは妹の花梨ちゃんだろう。
しかし、なぜ花梨ちゃんはせっかくあるインターホンで対応しないのだろうか。
「いらっしゃい」
勢いよく開いた玄関からでてきたのはやっぱり花梨ちゃんで、何故かその手にはお菓子を抱えていた。
「花梨、誰か来たのか?」
「お姉ちゃん来てるよ」
花梨ちゃんの後ろからひょっこりと出てきたのは制服にエプロン姿の彼だった。
そういえば、このお泊まりの理由となったアップルパイの事を忘れていた。
「お姉ちゃん? あぁ黒須さんじゃないか」
「ど、どうも」
「そんなところにいたら冷えるからあがりなよ」
「う、うん」
言われるがままに家へと導かれていく自分にもう少しスマートにこなせないものかと自己嫌悪を催すが、どうせ自分にはこれくらいが精一杯だ。
「すまないけどアップルパイはまだ焼けてないから適当にくつろいでいてもらえるかな」
廊下を行く彼の後姿に目をとられていたら彼はそんなことを言って私をリビングへと案内していた。
「お姉ちゃんいい匂いがするね」
どうしたら良いかわからずおろおろしている私の髪をいきなりくんくんとにおいだした花梨ちゃんは、そういってうれしそうに私に擦り寄ってくる。
「お風呂に入ってきたから」
うれしそうに私の髪の弄り回す花梨ちゃんにあいまいな返事をし、私は彼の姿を探した。
彼はうれしそうに鼻歌を歌いながら、もう完成間近になるだろう台所のオーブンを覗き込んでいた。
そういえば緊張していて気づかなかったが、部屋にはなんとも言えない香ばしいりんごの香りとシナモンの香りが漂っている。出来のほうは私のように鬼が出るか蛇が出るかなんてことはなさそうだ。
まぁ、彼自ら「ご馳走する」といってくれたのだから失敗することは無いだろうが、それでも楽しそうに料理をしている彼の後姿を見ていると、先ほどまでがちがちに固まっていた私の体も少しはリラックスできたような気がするから不思議だ。
「ん? どうしたの黒須さん」
私の視線に気づいたのか彼は、こちらを振り返り、笑顔で私に問いかけてきた。
もちろん私に出来たことといえば「なんでもない」と、どもりながらに言って視線から逃げることくらいだった。
「顔が赤いよ、お姉ちゃん」
「お風呂に入ってきたからね」
その後も意地悪そうな笑みを浮かべている花梨ちゃんに話しかけられ続け結局、私は彼とそれ以外何も話すことなく、時間だけがゆっくりと流れていった。
「こんにちわー」
のんびりとした空間にいきなり何かが訪れた。
普通、他人の家に上がるときはチャイムを鳴らして、相手が「どうぞ」といってから入るものだと思っていた。
しかし、その子恋ちゃんは堂々と家に入ってきたのだった。
いちおう挨拶はしているのだが、何か違う気がする。これは彼から見て、アリなんだろうかと考えてしまう。
「おう、恋もうすぐで焼きあがるからそこで待ってろ」
「はいよー」
彼の反応は普通だった。
それは、慣れから来ていたのか、あきれから来ていたのかはわからないが、とりあえず彼的には恋ちゃんのあの行動はアリらしい。
「こんばんわ恋ちゃん」
「おうよー」
ついでに花梨ちゃんもアリらしい。恋ちゃん自身はもちろんアリだと思っているだろう。
つまりはこの空間でナシと思っているのは自分だけらしい。
何故だろう、私は世間一般では正しいはずなのに、どうしてこんなことで疎外感を味わっているのだろう。
「こんばんわ」
と、そこにチャイムとともにもう一人の声が聞こえてきた。よかった、これなら私は疎外感を味わわなてくてすむようだ。
「流石はお隣さん。来るのが早いね」
花梨ちゃんが赤さんを迎えにいって開いたポジションに、私服姿の恋ちゃんがすわる。
恋ちゃんの私服はちょっと薄めのブラックハイネックセーターに白のガウン、そしてスカートにニーソックスという恋ちゃんにしては珍しい格好だった。
「あら、恋さんがスカートとは珍しいですね」
「そう? 普通よ」
私が恋ちゃんをまじまじと眺めているっと、やってきた赤さんがその長い髪と同じ色のマフラーをはずしながら、恋ちゃんの格好に少し驚いていた。
何が珍しいって、恋ちゃんはオールシーズンでズボンのみのような人間なのだ、たしか居候させてもらっていたときも、スカートなんかはいたことは無かったし、聞いてもあんな恥ずかしいもの着れないといっていた。
そんな恋ちゃんがスカートをはく。私は恋ちゃんがスカートをはいた光景を覚えている。確か、あの遊園地のときも恋ちゃんはスカートをはいていたはずだ。つまりは、恋ちゃんは相当気合が入っているということだ。
「どーせ私には似合いませんよ」
私達二人の反応にへそを曲げてしまったのか、恋ちゃんはあさっての方向を向いていじけ始めてしまった。
もちろん、似合っていないなんてことはないのだが、悔しいので心の中にしまっておくことにする。
「抜け駆けなんてずるいじゃない」
「えっ?」
私の隣に座った赤さんは、ポツリとそんな言葉をつぶやいた。
聞こえてしまった声に戸惑う私だったが、赤さんは「どうしたの」と私に微笑みかけるだけで何も語ってはくれなかった。
「あにぃまだー」
「もう出来たからまってろ」
台所では、相変わらず彼がオーブンを眺めていた。変わったのは、そこに笑顔の花梨ちゃんと笑顔の彼が加わったということだけ。
「よし」
オーブンが完成を告げるベルを鳴らすと、花梨ちゃんは「はやくはやく」と彼をせかし、彼も困ったように笑いながら「わかったから」とオーブンのふたを開けた。
漂っていたのは、香ばしいりんごとシナモンの香り、そしてそこにあったのはホカホカと湯気をあげる出来立てのアップルパイと、楽しそうな兄弟の笑顔だった。
「はぁ」
そんな光景を見ているというのに、私の左右の二人はため息をついていた。
二人はうっとりとしたような目で彼を見つめ、ため息をついたのだ。
ここにいる三人は姿かたち、そして思想は違う。それでも、何故か私は親近感を覚えずにはいられなかった。
「おいしそう」
恋ちゃんのため息は、アップルパイへの期待のため息だったようだ。
しかし、恋ちゃんの本心はわかっている。なにせ、本気で私にぶつかってきたのだ。ただなかなか素直になれないだけなんだ。
「はぁ」
深いため息をついたのは、反対側の赤さんだ。
赤さんも、彼が好きだというのは知っている。しかし、理由は知らない。でも、彼が好きだということには変わりないし、他人の過去がどうだとか聞くのはあまりよろしくないだろう。し私も聞いてほしくない。
「ねーねーまだー」
彼にじゃれ付く花梨ちゃんを眺めながら私は考えた。
私も花梨ちゃんのように彼を自然に笑わせることが出来るのだろうか、恋ちゃんのように冗談を言い合ったり出来るだろうか、そして、赤さんのように彼を叱咤することが出来るのだろうかと。最後の積算のは何か違うような気がしたが保留にしておこう。
そして、私は結果にたどり着いた。どうせ、私には無理だろうと。
そして、私たち三人は悩ましげに深いため息をもう一度ついた。
「さて、出来たよ」
本来なら、きれいに切り分けられた出来立てのアップルパイと紅茶を運ぶ彼を手伝うべきなのだろうが、ソファーに座っていた三人は誰一人立ち上がることなく、ただぼんやりと運ばれてくるのを待っていた。
三人とも、彼が運んでくるという風景を壊したくなかったのか、それとも誰かが動けばほかの誰かも動くだろうと思って動くに動けなかったのかもしれない。少なくとも私は前者だ。
「さて、俺自慢のアップルパイだ。じっくりと味わってくれ」
結果、私達は本当に何もしないままこうして目の前でおいしそうな匂いを放つアップルパイを見下ろしている。
「じゃあ早く食べようぜ」
気づけば藤村君も座っていた。何で帰っていないのだろうか。
そして、藤村君も制服のままなのにどうして彼と並ぶとこう見劣りしてしまうのだろうか。
「あんた、何でまだいるの」
「アップルパイが食べたかったの」
言いにくいことは恋ちゃんが言ってくれたのでよしとしよう。これで藤村君が泊まるなんて言い出したら私も何か言わせてもらうことにしよう。
せっかく彼の家に泊まるのだからお邪魔虫には退散願おう。
「ん?」
「どうしたの黒須さん?」
彼の作ってくれたアップルパイを目にして、首を傾げた私がおかしかったんだろう、彼は不思議そうに私を見つめる。
「な、なんでもない」
なんでもないといってみたが、そういえば私はお泊りしにきたんだった。
「いただきまーす」
動揺する私をよそに、みんなはアップルパイを食べ始める。
みんながおいしいといっているのが、聞こえるからおそらくこのアップルパイはおいしいのだろう。しかし、忘れていた事実の大きさに固まっていた私はどうも動けなかった。
「アップルパイは苦手だったかな?」
動かない私を心配そうな声で気遣ってくれる彼も、今は私の毒にしかならない。
「ア、アップルパイは好物です」
これ以上固まっているのは失礼なので私もアップルパイを食べ始める。
だめだ、味なんてわからない。ただ口の中の水分が奪われていくだけだ。
「熱っ」
何とか口を潤そうと急いで紅茶を口にしたのだが、私はその予想外の熱さに飛び上がってしまう。
「だ、大丈夫、いま水持ってくるから」
急いで台所へと駆け出した彼とは別に私の両隣の二人も私に声をかけてくるれる。
声をかけてくれるのはうれしいが二人の泊まりに来たはずだ。と、言うことはこの二人は覚悟を決めてきてるんだろうか。
「お泊まりだよ」
「え?」
「お泊りなんだよ」
「は?」
私の意味不明なつぶやきに動揺する二人。やはり覚悟しているのだろう。と、言うか私が考えすぎなのだろうか。
「恋ちゃんと赤さんはお泊りの覚悟できてるんだね……」
「あ……」
「あー」
私の力ないつぶやきに、恋ちゃんはフォークを赤さんはスプーンを落として固まった。
そして私は、今度は味わうように心がけてアップルパイを口に入れた。
「あ、おいしい」
それはほんのり甘酸っぱく、そして香ばしかった。