第61話〜開戦
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第61話〜開戦

 吐く息がとても白かった。なにせ冬だ。しかも、朝方だ。気温は昼間よりずっと低い。
 体がとても震えていた。だがこちらは寒さのせいだけではなかった。
「おかえり、はや――」
 家に帰った私は、私を迎え入れてくれた母の声も聞かずに走っていた。
「ちょっと、どうしたの?!」
 帰ってきて早々、部屋に駆け込んでしまった私を心配してか、母がドアをノックしていた。
「美穂? 美穂?」
 何度も何度も、ノックをしていた。
 しかし、私にはどうしてもそれが、他人事にしか感じることが出来ずにいた。
「もう、後でしっかり話は聞かせてもらうからね」
 何も言わない私に業を煮やしたのか、母はそれだけを言って、それ以上は追求せずに扉の前から去っていった。
「雪……」
 私は扉を背にしたまま、ふと目に入った外の景色を口に出した。
 外は雪、本格的な冬の到来を感じる。
 空いたままの窓から入ってくる冷気のおかげで、手先も足先も冷たくなってしまった。
「結構、積もってるわね」
 いつから降っていたのだろう、外はなかなかの積雪量に感じられた。
 つい先ほどまで外にいたというのに、まったく気づかなかった。
「美穂、もうそろそろいいでしょ」
 扉をノックする音とともに、母の声が聞こえてきた。
 もうそろそろ、といってもまだ数分しかたっていないはずだ。
 なにせ、私は彼の家を飛び出して、走って家まで帰ってきて、走って部屋に入って、こうして扉にもたれかかりながら雪を眺めていただけだ。
「あなたが帰ってきてから、もう六時間もたったのよ、そろそろいいころでしょ」
「六時間?」
「そうよ、六時間」
 なるほど、母の言うとおり、時計を見れば起きた時間から、朝ごはんを食べていました。では説明できなさそうなほどの時間が経過していた。
「その調子じゃ、まだみたいね」
 また、母は離れて行ったようで、いつの間にか気配が消えていた。
「お姉ちゃん……」
 今度は大河の声でふと時計を見た。
 また、知らない間に一時間が過ぎていた。
「何かあったの?」
「振り出しに戻る」
「え?」
「はじめからやり直し」
 その後、大河が私に何かを話しかけていたような気がしなくもないが、すべてノイズとして処理してしまった。
 だって、その方が楽だったから。
「ねぇ、何とか言ってよ!」
 時計を見ると、今度は三十分しか過ぎていなかった。
 私は、もっと時が、光のように早く過ぎてしまえばいいと思った。
「お姉ちゃん!」
 そういえば、大河は何をわめいているのだろう。
 先ほど、といっても三十分前にもなるが、そのときの事を思い出してみる。たしか、振り出しとか何とかを考えていたような気がする。どうやら、あれが思考の世界だけにとどまらず、私のリアルに侵食してしまっていたらしい。
 そういえば、振り出しとはどこなのだろうか。
 私が生まれる前?
 いや、それは不可能だろう。
 なぜなら、あれからずいぶんと時間がたってしまったし、大河も生まれている。それに住む場所も違う。私が消えるだけで済むなら、すぐにでも実行したいのだが、色々と付加要素がありすぎで不可能のようだ。
 ならばどこまで廻ればいいのか。
「静かにして頂戴。人殺しの弟」
 とりあえず、大河とはまた不仲にならなくてはいけない。私の脳がひらめいたことは、すぐさま実行されていた。
「……っ」
 そして、三十分間私の耳にまとわりついていたノイズは消えた。消えたのだ。
 しかし、このなんともいえない喪失感は何なのだろうか。
 何か重大なことをやってしまった。という感覚はあるのだが、どうもそれを明確に捕らえることが出来そうにもない。
「遠いなあ……」
 私は、白く染まった彼の家を見ながら、自らの手のひらをその景色に重ねてみる。
 昨日までは普通にあそこにいて、あそこで笑いあっていたというのに、今日はやけに遠く感じる。
 窓を隔てて数メートルがこれまで遠いと感じたのは、今まで生きてきたこの十八年間の中で始めてだ。
 十八年と自分で思って、ふと感じたが、たいした時間じゃない。
「ちょっと! 美穂、開けなさい!」
「へ……」
「いいから早く」
「あ、うん」
 先ほどまでの柔らな物腰とは打って変わって、鬼気迫るような口調で扉を強くノックしている母に怖気づいた私は、恐る恐る扉を開けた。
「馬鹿!」
「え?」
 頬に走ったのは、電流。ではなく鈍痛だった。
 確かに、痛みも厳密に言えば電気信号に変えられなくもないが、まぁ、この際そんなことはどうでもいい。
 現在の問題としては、三つある。
 一つ、何故、私も泣いているのか。
 二つ、何故、大河が泣いているのか。
 三つ、何故、母が泣いているのか。
 一つ目は、おそらく予期せぬところで張り手ももらってしまった事と、それにより生じた気の緩みからきた感情のダムの崩壊。
 二つ目は、この三つの中で最も簡単。
 恐らく、つい最近まで気にしていたことを、原因となった私に言われて、古傷をえぐられてしまったことだろう。
 だが、最後が分からない。
 私や大河が涙する理由は分かるのだが、母が涙する理由が分からない。
「言って良い事と悪い事があるっていうのくらい、美穂の年で分からないわけ無いでしょ」
「か、かあさん……そんなに気にしてないから、ちょっと動揺しただけだから」
「いいからあんたは黙ってなさい、大河」
 何故か、河が母をなだめていた。
 そういえば、泣いていると思ったのだが、どうやら涙の後があっただけのようだ。
「お姉ちゃんにも何かあったんだよ」
「でもね……」
「ほら、もう僕はなんとも無いからさ。もういいでしょ」
 先ほどまでは、私が竜の逆鱗にでも触れてしまったかのように怒りに顔を染めていた母が、大河の声で少しずつ、普段の母へと戻っていく。
「そ、そうね。少しやりすぎちゃったかもしれないわ」
 そう言って母は私に近づいてきた。
「ひっ」
 伸びてきた母の手に、私は何故か、無意識のうちに両目を硬く閉じていた。
「痛かったでしょ」
 頬に伝わったのは、鈍痛ではなく、ずきずきと痛む感覚を薄める、ひんやりとした感覚だった。
 閉じた両目を開くと、そこには、まだ泣いたままの母がいた。
「なれないことをするものじゃないわね。まだ手がしびれるわ」
 母は、私の頬を撫でていた手を引っ込めると、少し上下に振った。
「晩御飯、食べるでしょ」
「……うん」
「じゃあ出来るだけ早く降りてきなさいよ。今夜は、あんたの好きなオムライスだから」
 母はそう言って消えていってしまった。
 私は、まだ熱く、自己主張し続ける頬をさすりながら、部屋の隅にへなへなと座り込む。
 ひざを抱えた体育すわりは、何故かとても心が落ち着いた。
「お姉ちゃん。僕は気にしてないからね」
「……うん」
 大河もいなくなり、私はまたひとりになった。
 そういえば、母が私をぶったのは、初めてではないだろうか。
 昔からよく泣く母ではあったが、私に手を上げたことは無かったはずだ。それに、怒られた事も無い。
 私はそんな母を激昂させてしまったらしい。私は、元気の無い自分のために私の鉱物を作ってくれた人にそんな気持ちを抱かせてしまったらしい。私は、あんなにも自分を思ってくれていた人を裏切ってしまったらしい。
 考えただけで、自分が惨めに、疎ましく思える。
 ふと、机のペンたてにさしてあるはさみが目に入った。
 しかし、私はそれを手にはしない。なにせ、今はきるものが無い。この手首の薄皮など、物の数秒で切り裂けるのだろうが、それをすればまた大切な人を裏切ったことになってしまう。
 私はなんだか鉄の塊でも飲み込んでしまったかのような、胃の重たさを感じだ。
 今まで、空気より軽いのではないかとさえ思っていた自らの命が、こんなにも思いだなんて知ってしまったのだ。
 自殺をする人間は、考えて、考えて、考えて自らを殺すという一つの結果に一たったのだと思う。私はそれをさげすもうとは思わないし、それを偉業だとも思わない。
 思わない代わりに、私は考えるのをやめない。
 きっと、死んでしまった人は、考えるのをやめてしまったのだろう。もしくは、答えを発見してしまったのだろう。
「美穂、冷めちゃうわよ」
 だから、私は考え続けることにしよう。
 絶望ばかりのこの世界に宣戦布告をしよう。
 ありとあらゆる手段を使って私に苦痛を与え、思考をやめさせようとするこの腐った世界に全面戦争を開始しよう。
 だから、手始めに私は隠していたことを全部話そう。
 大河が知らない私の「サカサマサカサ」を。
 私しか知らない、彼への思いを。
 そして、願わくば、彼へこの思いを。
 最後の願いは、ずいぶんと後になりそうだがまぁそれはそれでいいだろう。
 なぜなら、私が戦うと決めたのだ。そう簡単に負けてやるつもりは無い。
 それに、まだ始まったばかりなのだ。
「美穂ー」
「はーい」
 そして私は部屋の隅から立ち上がった。

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