第56話〜準備
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第56話〜準備

「ただいま」
 玄関をゆっくりと開き、家に入る。
 赤さんと恋ちゃんと分かれた私は、その足で自分の家へと戻った。と、いっても彼の家から私の家までは数メートル。つまりは二人といた距離も数メートル。さらにいってしまえば、二人と別れた後に私一人で歩く距離なんて本当にたかが知れているので、寄り道をしようにもそれは外出になってしまう。
 部屋に戻って私が真っ先にしたことは、ベットに倒れこむことだった。
「お泊り……」
 真っ白な天井を眺めながらつぶやく。自分でもいつもと声の調子が少し違うのがわかる。
 何せいきなりのお泊りの誘いだ。私以外の二人も呼んだのだから彼にはよこしまな気持ちはないだろうが、それでも他人の家に泊まるというのはどきどきするものである。
 恋ちゃんの家になら泊まったことがある。しかし、それはなかば居候状態だったような気がする。あれは泊まるというより住んでいたというほうが妥当なのだろう。確かに、恋ちゃんの家に始めて泊まったときはどきどきした。いや、本当にそうだったのか?そういえば覚えていない。気づけば私はそこにいたのだ。
 もしかしたらあの時はショックで意識が混濁しており、色々と感覚が鈍くなっていたのかもしれない。もしくは麻痺していたのかもしれない。
「こ、こんな事をしている場合じゃない」
 枕を抱いてベットの上をごろごろと転がっていたのだが、そういえば大事なことを忘れていたのに気がついた。外泊をするのなら母にきっちりと外泊の許可をもらわなくてはいけない。これ最初にして最大、そして最長の試練のはずだ。
 なにせ、私の能力を知っている母があっさりと私、いや周りさえをも危険に晒すような事を心よく承諾するかといえば難しいだろう。それに外泊先は男の子の家だ。一般女子の親としては普通許可はしないだろう。
「よし」
 私はある程度身だしなみを整え、なんだか重い体を引きずりトントンと規則的なリズムを刻む台所へとむかった。移動中も頭の中はどうやって母さんを説得するかでいっぱいだ。何せすでに百八つの説得方法を思いついてしまうほどだ。
 規則的なリズムを刻む母の後姿を前に、唾をごくりと飲み込み覚悟を決めて声をかける。
「か、母さん」
 もしかしたら声が裏返っていたかもしれない。
 もちろん母はオーディション前の初参加の素人のようにがちがちになった私を不思議そうに眺め、まな板を叩く作業をの手を休めた。
「どうしたの? 美穂」
 やさしく微笑みかけてくれるのはいつもどおり。だがしかし、この笑顔も、この外泊について聞けばどう変わってしまうかわからない。
 それでも私は聞かなくてはいけないのだ。そして私は納得させないといけないのだ。これはおそらく人生の分岐点に違いない。
「し、白銀君のおうちに泊まりたいんだけど」
「いいわよ」
 私が予想していた時間を大幅に短縮し、母さんは眉ひとつ動かさずに私に笑顔のまま即答した。
「へ?」
 あまりの事態に今までの計画が水泡になって消えてしまった。と、同時に私の考えた百八つの母さん説得法も意味をなくした。
「で、でも外泊だよ。しかも男の子の家」
「なに? 何か不満でもあるの」
 母の言うとおりだ。驚きはしたが別に理由をとやかく聞いたりする必要はない。外泊許可が出たのだ。それだけで十分ではないか。
 ここで変に追求して母さんが心変わりをしてしまうと大変だ。
「どうせあなた一人じゃないんでしょ」
 口元を不気味に吊り上げ核心を突く母さん。もしかしたら母さんはESPなのかもしれない。
「あなたが一人で泊まりに行く度胸があるとは思えないし、お友達と一緒なんでしょ。心配はないわよ」
 なんだかひどいことをいわれているような気がするのだが、今は外泊許可をもらったということで納得しておこう。
 優しい笑顔でにっこりと微笑み、「楽しんできなさい」と言う母さんに「ありがとう」とだけいって部屋に戻った。
 
 部屋に戻った私は安堵のため息をつき、そして気づいた。時計を見ればもうこんな時間かというほどに時間は過ぎていた。残された時間はごくわずか。
 なにせあの二人が家に帰って戻ってくるまでに私はすべての準備を終了させていなくてはいけないのだ。
 しかし、外泊だなんて、何をしたらいいのだろうか。まずはそれを考えるところから始めなければいけない。
 手始めに、参考になりうる事柄を考えてみる。泊まるといえば旅行。家族と行かない旅行といえば修学旅行。さこ、ここでひとつ疑問が浮かぶ。私は修学旅行の準備をしたか。 
 そういえばもともと修学旅行に行く気なんてなかった私は、何もしていなかったような気がしてならない。朝起きて下に下りたら荷物がおいてあった。早く早くという母さんに押されてそのまま出発。確かそんな感じだ。
「だめだ」
 私は頭を抱え、次に何かないかを考えてみる。
 私にある知識。知識。悲しいかな私の中にあるのは本で得た事柄だけである。それでもないよりはましだろう。
「あれの出番か……」
 私は自室に並ぶ本棚の奥の奥、ひっそりと隠れるようにいくつかの本が置いてあるその一角へと歩を進める。歩を進めるといってもたかが学生の一部屋なので数歩でたどり着いてしまうのだが、そこは私の部屋でも誰にも見せたくない場所だ。だから部屋の一番すみの奥のほうに隠すようにしておいている。
 隠すといってもその程度しかしていないのだが、私の部屋に人が入ることなんてめったにないのでこの程度でも十分隠し通すことができる。ようは扉から死角であればいいのだ。
「さて」
 私はその隠された本棚から一冊の本を取り出す。
 その本はほかの本棚に陳列してあるそれとは違い、ファンシーな色使いの表紙、そして内容もその表紙に沿うようにとってもファンシーだ。世間一般ではこれ少女漫画、または恋愛小説なんて言い方をする。
 別に私くらいの年の学生が少女漫画を持っていようが何も言われそうにないのだが、何せ私だ。いつも分厚い難しい本を読んでわざと周りを遠ざけている私がこんな普通の趣味を持っているだなんて知られてしまったら注目を浴びるだろう。それに恥ずかしい。
 私の隠されたその場所には、少女漫画に恋愛小説。私の部屋で唯一女の子らしい場所がそこだった。この空間にいると、私が普通の女の子になってしまったのではないかという錯覚にとらわれる。異常者と後ろ指を差されながら生きるこの私がだ。
 許されないことだから望んでしまう。しかもそれが妄想でも体験が出来るのだから私はそれだけで十分すぎるのだ。
「うーん」
 適当な漫画を取り出して何か参考になるような事柄はないかと漁ってみるのだが、役に立ちそうな事はこれっぽっちもない。所詮は創作物。いかにリアルだと歌っていたとしてもちっともリアルではない。やはりこれはリアルを模した空想なのだ。空想だから私が楽しんで読めるというのもあるのだが。これはだめだ。
「美穂、お風呂入って行かないの?」
 私の部屋のドアが二、三度ノックされたと思えば母の声が聞こえてきた。
 そうか、あっちでお風呂に入るわけにも行かないからお風呂には入っていったほうがいいのだろうな。この家で少女漫画より女性らしい母がそう言うのだからそうなんだろう。
「はいる」
 扉の向こうにいる母はからは「早く入りなさいよ」と優しい声のほかに少々の笑い声が聞こえたような気がする。もしかしたら母は私が悩んでいると思って手を貸してくれたのかもしれない。たかが泊まりに行くだけと思っていたのだが、こんなところまで母の手を煩わしてしまうだなんて、私はまだまたひとり立ちできそうにない。 
 
  
「お泊まり……か」
 自分の姿を確認できるか出来ないかほどもんもんと湯気の立ち込める風呂場で、私は一人浴槽に沈んでいた。おそらく急いで入れてくれたのだろう。
 そんな風呂場に聞こえるのは私のぶくぶくという泡を立てる音だけ。
「はぁ」
 自分でもわかるように声に出すようにしてため息をつく。そのため息はきれいに反響して私の耳に届く。泊まりにいくだの準備しないとなんて考えていたのだが、本当に私なんかが彼の家に泊まってもいいのだろうか。
 なにせ、私は人殺しだ。一般人である彼のそばにいること自体おかしいのだ。あの文化祭でおきたことには感謝をしている。もちろん、みんなが死んでしまったことではなく、みんなが生き返ってくれたことにだ。
 あの時、銀子が私にヒントをくれていなければ、私は私を殺していたかもしれない。
 しかし、そんな考えも、すぐにただの逃げだと理解する。そもそも、私が生き返らせたのではなく、私が殺したのだ。私が殺さなければああはならなかったのだ。もっといえば私が生まれなければこうはならなかった。
 私が生まれなければ、大河はいじめられることはなかっし、私が生まれなければ、誰も傷つかなかった。私が、私が。
 考え始めるともう負のスパイラルはとどまることを知らない。私はもはやこの世から消えてしまいたかった。このままこの温かなお湯に解けてしまえばどんなに楽だろうと思った。すべてがマイナス。ネガティブ。それが私なのだ。
 だがしかし、消えてしまいたいと願う一方でまだ生きたいというくだらない考えも存在している。恋ちゃんと笑い。赤さんと時々衝突し、大河と挨拶をする。母に料理を習い、母にお礼を言う。そんなたわいのない日常がたまらなくいとおしくなってしまったのだ。
 それに、何よりも彼ともう少し過ごしたい。彼にありがとうとお礼をし、彼に好きだといいたい。願わくば彼もにも「俺もそうだ」といってほしい。
 だがしかし、それは私のサカサマサカサが許してはくれないだろう。きっと私の願う日常は崩壊し、彼も私を嫌ってしまう。最近、通常生活ではサカサマサカサが発動することはめったにないのだが、これは嵐の前に静けさというものなのだろう。きっとこの生活はいつか崩壊する。だが、まだ楽しんでいたい。
 ゆれる私の頭の中で声が聞こえる。一つは「死んでしまえば楽になるよ」とささやき、もう一つは「生きて苦しむといい」と甘くささやく。それは、どちらが悪魔でどちらが天使なのかは私にはわからない。ただ、私は思うのだ。
「生きて楽になる」
 反響する自分の声を聞きながら、自らの叶わないだろう強欲な戯言に声に出して笑った。
 笑ったのだ。頬がぬれているのも、目がやたらと霞むのもきっとここが風呂場で、お湯が入れたてで温度差による水蒸気が発生しているからなのだ。
 
 
 
「そろそろあがったら?」
 笑い続ける私に声がかかる。おそらくこの声は母なのだろう。
 もしかしていきなり笑い始めた私を心配してくれたのかもしれない。
「うん」
 返事をすると母の気配は遠のいた。
「ひどい顔」
 鏡に映る自らの顔を見てまた笑い、浴槽にたまったお湯で顔を洗い、ぶるぶると首を左右へと振る。今グダグダと考えていてもどうにもならないのだ。
「用意はしておいたから余計なことは考えずに楽しんできなさい」
 遠のいたと思っていた気配は案外近くにあり、風呂場から上がった私の顔にバスタオルをかぶせ、そのまま母は去っていってしまった。
 本当に私は母にはかなう気がしない。おそらくはこれから一生かけてもきっとかなうことはないに違いない。
 なにせ母は、私の母だからだ。
「ありがとう」
 私は母に聞こえないように小さくつぶやいてから、体を拭き、用意されていた服に袖を通した。
 さあ、準備はできた。後は向かうだけだ。
 私は頬を軽く叩き、気合を入れて玄関へと向かった。
 強欲でも、叶わないとわかっていても、それでも私は彼が好きなのだ。

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