第32話〜宣言
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第32話〜宣言

「なんだって」
 あせった様子で立ち上がった彼よりも私は先に動いていた。
「ごめん」
「ちょっと黒須さん!?」
 そのまま後ろも振り返らず、教室を飛び出していく私に背後から彼の声が聞こえてきたが、そんなもののために止まっている暇は今はない。なにせ、大河が大変な目に会っているというのだ、一刻も早く駆けつけてやらないといけない。まさか大河が学校に来る。いや、来れるなんて思いもしていなかった。あれほどかたくなに部屋から出てこようとしなかった大河がいきなり学校に来る。そんなものは私の理解できる範ちゅうを軽く超越していた。第一、大河は八年間もまともなコミュニケーションを人間ととったことがないはずだ。自分からはアクションを起こせない。そんな大河がトラブルを起こしているとしたらそれは一つしか考えられない。
 大河が長い引きこもり生活に入る数日前、前の学校でも同じようなことがあった。大変なことになっていると先生に聞いて家に帰ってみれば、大河は頬を赤く腫らし、服には泥が多く目立って居た。いったいどうしたのかと母が聞いたところ、大河は何も答えず、私にただ一言、お姉ちゃんのせいだ。とだけ言ってきつく私をにらんだのだ。
 今思えば、アレはきっとクラスでいじめられた。それも私のせいで。そう考えるのが妥当だろう。それを考えると、このまま自分が大河の元に行っても何になるのか。なんて考えてしまう。いじめられている大河にどう接したらいいのだろうか?また、お前のせいだ。といって睨まれてしまったら、私は一体どうすればいいのだろう。さっきまで自分でも信じれないくらいに動いていた足は、徐々にそのスピードを緩めていた。
「黒須さん」
 追いついた彼が私に声をかけてくるまでの時間はそう長くなかった。なぜならば、私の足はすでに歩むことを放棄していたのだから。
「どうしたの?」
 しかも、私の足は歩むのを放棄しただけではなく、ガタガタと震えていた。拒絶される。分かっていても現実にそれを受け入れるのは私は弱すぎる。だから今までずっと家にも帰らずに逃げていた。実の弟が怖くて、他の温かい場所へと逃げ続けた。なのに、大河が大変なことになっているかもしれない。そう聞くと何故か体が動いたのだ。
 だが、私は結局そこまでどまりだった。時間が少したって、頭がクールダウンしてきたところで、いきなり怖くなって足を止めてしまった。しかも今では恐怖で足が震えている始末だ。
 そうだ、また逃げよう。逃げてしまえば怖くない。頭の中でそんな声が聞こえてきた。それは俗に言う悪魔のささやきなのかもしれない。だが、私の中に天使など居らず、素直にその言葉に従い私はその場から逃げ出そうと決心する。
「いくよ、黒須さん」
 逃げようとする私の中に天使は存在していなかったが、私の中の天使は目の前に居た。いつものようににっこりと暖かい微笑を浮かべながら私に手を差し伸べてくれる天使がだ。
 そして私は彼の手をとった。震える足を何とか前へと進めようとして気づいた。足の震えが止まっていることに。確かこんなことは少し前にあったはずだ。たしか、アレは雨の日だったような……。
 しかし、思い出そうとしてすぐにやめた。頬の温度が確かに上昇したのを感じたからだ。あの雨の日の事。恐怖に震えていた私は彼に何をしたか。それを思い出すと彼の顔なんてまともに見ることが出来そうもない。
 私は今、確かにつながれている彼の手から確かに温かい彼の体温を感じ、勇気を振り絞り大河の元へと向かった。
 
 
 
「無理」
 私がそういって彼の手を振り解いたのは、大河の教室の扉のすぐ前まで来たときだった。いまさら何を言っているんだとは自分でも思うが、彼の力を持ってしてでも怖いものは怖い。結局は私はこの程度。私はまだ逃げていたい。拒絶されたくない。
「何言ってるの」
 逃げようとする私の手をもう一度握り、彼は勢いよく扉を開けた。
「御用あらためである!」
 とてつもなくユーモアな掛け声と共にだ。
 当然の訪問者に、扉の向こうの下級生達は固まってしまっていた。こんな変な掛け声と共に見知らぬ上級生が部屋に入ってきたのだ、それがまともな反応と言えるだろう。私だって同じ立場ならきっと同様に固まっていたに違いない。だが、今はそうではない。なぜなら私は突入して来た方なのだからだ。
 はやく大河を見つけてしまおう。流石に、変人を見るような目で見られ続けるのは好ましくない。しかし、ふと思い出した。大河を見つけたところでどうしようか。先ほどまで逃げようと必死だったと言うのにいったい何をしてやることが出来るのだろうか?いじめられていたら?殴られていたら?考えては見るものの、何も解決策は思いつかない。そう思うと自然と私の背線は地面へと向かっていった。
「お姉ちゃん?」
 自分の絶望的な思考の前に現れたのは、絶望的な光景だった。
「何でいきなりいなくなっちゃうのよ馬鹿あにぃ」
 やっとここでこの状況を作り出した元凶が現れた。
「大河君がもうモテモテで困って――」
 声のほうに視線を向かわせた私の目に飛び込んできたのは、女子に囲まれた大河がたじろいている風景だった。しかも、大河を囲んでいる女子達からは一切の怒気等の類は感じず、そこからはその逆の雰囲気が感じ取ることが出来た。
「っく」
 急いで彼の手を振り解き、そして今度は来た方向へと走り出した。今度は立ち止まることはないだろう。
 走って、走って、走る。自分の暗い妄想を振り払うかのように走った。何がいじめられているかもしれないだ。大河はああして元気にやっているじゃないか。ただの取り越し苦労だったんだ。これでは私がピエロではないか。
 やがて、ずっと校舎の中を走っていた私は関係者以外立ち入り禁止とかかれた扉の前にたどりつく。この先ならば誰も居ないかもしれない。そう思って私は開かないだろうドアノブをひねった。
 予想に反し簡単にドアノブは回った。きしむドアを開くと、心地よい風が私の頬をなでる。空にはまぶしい太陽が輝いている。
「ん?」
 そこいた先客は、一度だけ私を見て興味なさげに空を見上げた。立ち入り禁止の扉が開いたわけ。それはこの目の前に居る先客が何か関係しているのは間違いはないだろうが、別にそんなことはどうでもいい。私に干渉してこないなら、それでいい。
「俺は消えるよ。鍵はここに置いとくから」
 それまで寝転んで空を見上げていただけの先客はゆっくりと立ち上がり、私の前に鍵だけを置いて去っていった。気を使ってくれたのだろうか。それとも、一人で居たかったのか。とにかく私は一人になれた。
 それにしてもいい天気だ。今日はこのままこの屋上で日向ぼっこをしたままでもいいかもしれない。帰ってもいいのだが、私の帰る家は恋ちゃんの家なのだから、家主が居ないのに一人で帰宅するのは面倒なことになりそうだ。授業もサボってしまおう。あとで恋ちゃんにどうしたのかと聞かれれば、体調が悪かったとごまかそう。もう何も考えないで居よう。ここならば人がくることはないだろう。そうだ、それがいい。なんだか太陽もぼやけて見えるし、もうまぶたを閉じてしまおう。かなうならばこのまま寝てしまいますように。
「んー」
 どうやら本当に寝てしまったようで、大きく伸びをした私の目に映るのは、きれいな青から燃えるような赤へとその色を変えた空だった。季節は秋へと移り変わっていっている為か、昼間はあんなにも暖かかったと言うのに、今では少し肌寒い風が私の髪をなびかせる。しかし不思議だ。風はこんなにも冷たいと言うのに体はそれほど冷えていない。体を起こしたところでその理由に気づく。私の体からすべるようにして落ちていったのは黒い服。私のものではないこの黒い服の正体は制服だった。女子はこんなものを着ない。と、言うことはこれは男子の物だろう。だがいったいこんな親切なことを誰がしてくれたのだろう。まさかあの先客?いや、あの人はそんなことをする柄ではないだろう。では大河?いや、私を恨んでいるだろう人間はこんなことをしない。ではいったい誰が?
「よく眠れた?」
 その答えは案外簡単に出た。
 フェンスに寄りかかるようにして私を見ていたのは、上半身が寒そうな薄着のままの彼だった。
「あの後、色々と探したんだよ」
 フェンスから離れて私の隣までやってくる彼。そのれまるで小さな子供をしかりつけるかのような優しい口調だった。 
「そしたら、偶然藤村に出会ってね。あいつに出会わなかったら俺は恋の家に行くところだったよ」
 肩をすくませておお怖い怖いとおどけていって見せる彼を見て、思わず笑ってしまう。本当にこの人と居ると不思議な気持ちになる。やっぱり私の居場所を教えたのはあの先客だったのか。そうでない限りここに人がくることはないだろう。
「実はね」
 言って彼が私のすぐに腰を下ろす。とたんに私の心臓がドクンと大きく跳ねた。 
「最初に謝っておくね。ごめん」
 おもむろにそういって私に向かい謝罪の言葉と共に頭を下げる彼。いきなり頭を下げるなんていったいなんだと言うのだろうか。寝ている間に私に何かしたのだろうか?それなら別にかまわないと言うのに……。
「実は今日、君の弟を学校に呼んだのは俺なんだよ」
 私の予想していたものとは全く異なったことを彼は口にし始める。やはり、あの大河が一人で家から出てくるわけがないか。
「黒須さんも悪いんだよ。いつまで経ってもアクションを起こさないんだから」
 少しだけ怒ったような口調になった彼を見て、ようやく理解する。この人は私と大河をどうにかして仲直りさせようとしているのだと。自分に向けられる感情には鈍感なくせに、他人のことになると鋭いというのは実に厄介だ。事実、私が大河と何かあったというのを知っているのは片手で納まるほどの人数なのだ。よほどのことがない限り私達姉弟の仲など分かるはずがない。と、言うよりは私に弟が居るのを知っている人数も少ない。だがここまでしてもらって言ってしまうのもなんだが、そのもくろみは無駄だと思う。だって、私のことを恨んでいる大河を納得させるなんてことは相当困難だろうからだ。八年、八年もの間人を恨んでいればそれは殺意に変わるほどの年月だろう。そんな人間の意識を変えるなんて魔法でも使わない限り無理だろう。
「恨んでる」
「え?」
 まだ色々と言い訳をしながら大河を呼び出したことについて話している彼の言葉を遮って彼に無駄だと言うことを教えてあげる。
「きっと許してくれない」
「君もか」
 彼の反応は思ったより早かった。その表情は哀れみや諦めなんかではなく、あきれているといった感じだった。
「君たち姉弟はここまで考えていることが一緒なのにどうして仲直りが出来ないのかな」
 私を一瞥してため息をつく彼。何かを知っているようだ。
「さっきの台詞、この前聞いたんだよ。それも、黒須さんの弟から」
 赤く染まった空を見上げながら、遠い目でつぶやく彼。大河が私に恨まれていると思っている?何を言っているのか全く意味が分からなかった。悪い冗談かと思った。しかし、彼の横顔はいたって真剣だったし、彼はそんな冗談を言う人間だということは知っている。だが、考えれば考えるほど分からない。大河を引きこもりにしたのは私だというのに、大河は私を恨むどころか私にうらまれていると思っている。それではあべこべだ。大河は私を恨んでいるはずなんだ。
「弟君は、引きこもった後も学校に行き続けた黒須さんはきっと、自分の分もいじめも受けているに違いない。と逃げた自分を悔やんでいるんだよ。聞けば君達姉弟は、八年間も言葉を交わしていないんだろう? 弟君はそれで黒須さんが自分を恨んでいるんだろうと思っているんだよ」
 うんうんと頭を抱えて悩んでいる私に彼がヒントを与えてくれる。
「だってそれは、あんな状況に大河を追いやった私を恨んで言葉をかけてくれないのかと思って……」
 考えれば考えるほど分からなくなっていく。まるで頭の中が沸騰してしまったようだ。
「あぁもう。どちらかが怒ってないっていえばすむ事なんだよ」
 うじうじと悩み続ける私を見て、彼が耐えられなくなったように立ち上がる。
「そして、その役目は姉である君がすべきなんだよ。黒須さん。」
 びしっと私に指を差すその姿が、夕焼けに照らされて真っ赤に染まっていた。彼がここまでしてくれたのだ。しかも、長年悩んでいたことは杞憂だったのだ。それならば、今まで八年間もの間、姉らしいことを何一つしてやれなかった大河に姉らしい所を見せようではないか。
「わかった」
 彼と同じように立ち上がり、そして彼に指を突きつけ、大きな声で宣言する。
「やってやるわよ!」

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