第17話〜大凶日
「ごめんね、黒須さん」隣りにいた花梨が元気に走っていく後姿を眺めながらも、俺は軽く黒須さんに謝罪をしておく。
「おじゃましまーす」
そういって、きれいに編んだおさげを揺らしながら玄関の向こう側へと消えていく花梨。
黒須さんが風邪を引いて看病をしに行ったあの日以来、花梨は黒須さんの弟さんにぞっこんのようで、一緒に部屋に行くわけにも行かない俺はこうして妹の尻拭いをしている。しかもここ一週間毎日だ。
「いい、気にしないで」
確かに、妹の尻拭いなんていうのは面倒だが何も悪いことばかりじゃない。もちろん良いことだって有る。それは、黒須さんと毎日学校以外でも言葉が交わせると言うことだ。この頃はほんの少しだが、俺に話す言葉もうんとかいいえとか以外の普通の会話が出来ているような気がする。
といってもまだ単語単位でとても短いものだが、前の時よりは進歩しているに違いない。
「今日もまた花梨を頼むよ」
いつもここに居る時間は決まって花梨が家に入るまで、なので今日も俺は立ち去ることにする。
黒須さんはいつものように黒くきれいな髪を縦に揺らすだけのお別れの挨拶。別に不満ではないし、それで十分だ。
「バイバイ」
しかし、俺が黒須さんに背を向けて帰ろうとした時だった。いつもとは違うことがおきた。黒須さんが俺にお別れの言葉をくれたのだ。
俺はその異常がとても嬉しくて振り返り、自分の思いつく極上の笑顔で同じ言葉を黒須さんに告げ、そして家へと足を向かわせた。なんだか今日はいいことがありそうだ。
「何で俺が……」
先ほどまでの笑顔がどこに行ったのかと言うくらいに俺は頬を膨らませ、ぶつぶつと愚痴をこぼしていた。
その手には先ほどスーパーで購入した、お一人様二パックまでの限定特価一パック五十円の卵二パック入った袋が握られていた。今日の晩は恐らくはオムライス。父さんがそういっていたので間違いないだろう。オムライスと言えば俺の好物の一つなので、今日がオムライスのだということを考えれば少しは落ち込んだ気分も晴れたような気がした。
ところで、何故俺がこんなことをしているのか?その答えは簡単だった。
「お使いに行ってきてくれ」
早く帰っていた父さんが俺にいったはじめの言葉だった。
おかえり。とか、今日は早いな。とか普通の言葉でよかった、別に好きな子は出来たか?とか成績はどうだ?とか、そういった世間話でもよかった、なのにあれはないだろう。
父さんは笑顔で俺の手に五百円をそっと握らせ、無言の圧力をかけてきた。
釣りは小遣いにしろ。といったくせにぴったりの金額しか出さないところがまた父さんらしい。
「やめてくれるかしら?」
そんな父さんの横暴について思い出し、暗い気分になりながら地面を見つめたまま歩いていると、ふと聞いたことのある声が近くの路地から聞こえてくる。
せっかく黒須さんのバイバイが聞けたから今日はいい日だと思ったのに、どうやらそうでもないらしい。
「やめなさいといってるでしょ」
声のほうに視線を送れば、そこには見覚えのある色と、見覚えのないいかにもといった風貌の人間が居た。
口調はきついものではあるが、声は震えているし、なんともわかりやすい子だ。
俺の口からはこんな場面に遭遇したことに対する愚痴さえも出ず、もうため息しか出なかった。やはり今日はついていないらしい
「すこしくらいいいじゃん」
そんな状態だったので、男にそういって腕をつかまれたときには、髪の色とは正反対の色に顔を染める。
何とか振りほどこうとするも、腰が引けてしまって力が出ないと言うのと、やはり男と女では力の差が大きすぎるというのもあって、その手はふりほどかれない。と言うかあの男は大きすぎるような気がする。あれではまるで熊だ。
人間が熊と戦えばどうなるか、そんなものは言わなくてもわかるだろう。達人レベルならどうにかなるのかもしれないが、俺は何かの達人であるわけでもないし、秘めたる力があるわけでもない。なので、あれには到底かなわないだろう。
「仕方がないな」
俺はもう一度大きくため息をついて手に下げていた袋に手を伸ばし、その中から卵を一つ取り出す。勝つ事は出来ないが、逃げるのなら得意だ。何せ、この前の殺人鬼からは見事逃げ切ったのだ。こんどだってやれる。
そう強く思い、俺は振りかぶった卵を男に投げつけた。
「いっ」
体のどこかにあたればいいだろうと思って投げた新鮮な卵は運良く、いや運悪く顔面にクリーンヒットしてしまった。
瞬間、男はつかんでいた手のことなど忘れて俺のほうに体を向ける。俺を確認してからの男の動きはすばやかった。
ものの数秒で顔を真っ赤に染め、そのまま俺のほうに走ってきたのだった。その間わずか三秒。なんとも切り替えが早い。
「いてて」
そして、今俺は男に吹っ飛ばされて壁にもたれて座り込んでしまっている。ここまで六秒。あれだけ逃げるのは得意だと思っていたのに、わずか六秒間しか逃げ切ることが出来なかったことにすこしため息をつき、俺はゆっくりと立ち上がる。
手にさげていた袋は、もう黄色に染まってしまっている。
「養鶏所の人ごめんなさい」
目の前に迫ってくる物凄い勢いの拳より、今は卵がつぶれてしまった事のほうが気にかかってしまった。
ここでこの拳をきれいによけることが出来たらかっこいいのだろうが、ここは漫画の世界ではない。当然俺は拳をもろにくらいまた壁を背にして座り込む。
そういえば西条さんは逃げれただろうか?真っ赤な髪と、聞いたことのあるような声と言うだけで西条さんと判断したが、もしかしたら見知らぬ誰かかもしれない。
それでもいい、とにかく逃げれただろうか?
「こっちです! こっちで暴行事件が!」
俺が視線を上げて逃げ切れたのかを確認しようとしたとき、その人は逃げるどころか肩で息をしながらかえってきてしまった。
何故か大声で人を呼びながら。
「っち」
人が来るのを恐れてだろうか、男は俺を一瞥しただけでそのままロケットのような速度で居なくなってしまった。本当にすばやい。
「ゆ、ゆーとあんた大丈夫なの?」
男が去るのと同じぐらいのときにその人は俺の元に走ってきた。
「やぁ西条さん。元気?」
なんだかいつもより重たい右手を少しだけあげて西条さんに挨拶をする。
「あんたねぇ……」
来ていきなりため息をつかれてしまった。
「そういえば誰か呼んだの?」
確か大声で誰かを呼んでいたような気がするので確認してみる。
「誰も居ないけど?」
なるほど、はったりというわけか。
平静を装って俺に教えてくれた西条さんだったが、どうもなみだ目だし、顔が青ざめているし、手も心なしか震えているように見える。やはり、襲われそうになっていたのは西条さんで間違いないだろう。
「怪我はない?」
ここまでして助けたんだから怪我をしていたらなんとも情けない。
「し、白金のおかげでしてないわよ」
「ならよかった」
照れたように頬を染めて俺にそういう西条さんを見て安堵し、頬を緩ませる。怪我がなくてよかった。
「あんたこそ怪我は大丈夫なの?」
「たいしたことないよ」
本当はもう指一本動かしたくないくらいに痛いし、なんだか少し眠いがここは男の意地としてこれくらい言っておかないと気がすまない。
しかし、そんな嘘はすぐに見抜かれたようで、西条さんは俺のわき腹を少しつついた。
わき腹をつつかれただけという少しの衝撃だというのに、俺はその痛みに声をあげてしまった。
「やっぱり」
西条さんは少しあきれたような顔をして、ため息をつく。そして、ポケットからハンカチを取り出し俺の顔についているごみをふき取ってくれた。
「本当、君はいつもこれだ」
苦笑いしながら俺の顔を吹く西条さんは、とてもきれいに見えた。それはそう、単純に美しいというより、なんだか温かみのある美しさ。なんと言うかこう、優しさに近い、懐かしいような感じのする美しさだった。
そんな西条さんの顔を見て安心してしまったのだろう、なんだかとても眠くなってきてしまう。だめだ、ここで寝ては駄目だ。
しかし、俺の意思とは裏腹にまぶたは深く閉ざされてしまった。
「いてっ」
針で刺されたようなチクッとした痛みに目を覚ますと、そこはよく知った風景だった。
部屋に隅に張られたクモの巣、無造作に並べられた漫画の本。そして見慣れた勉強机。なるほど、ここは俺の部屋らしい。
体を見ると包帯が数箇所に巻いてあり、もうすでに怪我の治療はされた後のようだ。
どうやってここまで来たのかはわからないが、恐らくは西条さんがどうにかしてくれたのだろう。その証拠に俺の腕には西条さんのものであろうハンカチが巻きつけてあった。
なにやら手紙が入っているようだったのでハンカチを腕からはずして中の手紙を読む。
「ハンカチは洗って返してね。後は家まで運んだから何かお礼頂戴ね」
こいつは鬼だ。手紙を見てはじめに思ったのはそれだった。ハンカチはもともと洗って返そうと思ったがこれではどうも返したくなくなってしまう。
それに助けてもらったのにお礼をよこせというのはどういった神経なんだろうか?
と、そこまで考えて気づく。
「俺も助けられたのか」
たしかに家まで運んできてもらったのだから助けてもらったことになるだろう。だからこのことについては俺は御礼を要求されても仕方がないのかもしれない。
まぁ適当に御礼を持っていくことにしよう。
そうだ、俺の得意なうさちゃんりんごを弁当いっぱいに持って行こう。どうせ昼は一緒なのだからそれで済まそう。
「あにぃご飯」
俺がそう決めたときに扉が開く。ノックもなしか……。
俺が体を起こして花梨を見ると、持っていたのは真っ赤なご飯。そうケチャップライス。
「誰かさんが卵を使い物にならないまでに粉砕して持ってか帰ってきてくれたから、今日はメニューを急遽変更してみたいよ」
なんと言うことだ、花梨の尻拭いをし、お使いに行かされ、男に殴られ、そしてこれか。
なんとも今日は厄日だ。
「元気だしなよ」
そういってかりんは俺の背中を思いっきり叩いた。
家中に俺の叫び声がこだました。