第85話〜お久しぶりですサカサマサカサ
香ばしいチョコの香り、少し蒸し暑いといっても過言ではない室内。「……」
私達はチョコを作っていた。
「困ったわね……」
はずだった。
「す、すみません」
「いえ、いいのよ。でも、これは予想外だったわ」
少し困ったような表情を見せる彼のお母さんとは対照的に、チョコではなく固まっていたのは私を含め、恋ちゃん、赤さんの三人。
そして、足元にはチョコレート色の床。もとい、チョコレート。
キッチン。別名、戦場。ただし私達三人が同時に使用した場合のみ。
こんな言葉が思い浮かんだ。
彼のお母さんも、湯煎して固める程度の作業は、私達を馬鹿にしているのではないかと思っていたのかもしれない。しかし、結果的には、私達は湯銭程度ですらつまずいていた。
「ゆ、湯銭は私がやりますね」
彼のお母さんの言うことに頷き、私達はただその光景を見守った。
幸い、チョコのストックは用意していたらしくまな板の上では長方形を保っていた板チョコが見る見るうちに細かくなっていく。なるほど、包丁はああやって使うものらしい。
「あ、掃除」
三人の内誰かが呟いた。
私達は誰からともなく作業を分担し、こぼしてしまったチョコレートを回収する。別に不器用なわけでもないのですぐに片付けは終わった。
見事茶色に染まってしまった雑巾からは、甘い香りが漂っている。これはもう蟻用に外に放置するくらいしか使い道がなさそうだ。芳香剤として使う手もあるが、部屋一帯が甘ったるい空気に包まれるだなんてお菓子の家みたいな事は遠慮したいのでおとなしくゴミ箱に捨てる。
「湯銭、出来たわよ」
声が聞こえる。どうやら私達が片づけをしている間に湯銭は終わったらしい。
二重になった銀のボールの中では、チョコが程よい堅さにとろけていた。
「じゃ、今日は簡単なカップケーキとかにしようと思うのだけど、どうかしら」
「じゃ、じゃあそれで」
もとよりほかにどんな選択肢があるのかもわからない私達は、馬鹿の一つ覚えのようにうんだのそうですねと呟いては首を縦に振る。
「じゃ、まず材料の確認をしましょうね」
そういって取り出されたのはいろいろな食材。
「無塩バター100gでしょ、グラニュー糖80g、小麦粉100gに卵3個。そしてこの溶かしたチョコレート。まぁ市販の板チョコレート一枚分ってところかしら。このセットを三つ用意します。」
一つずつ指を指しながら丁寧に説明してくれたのだが、こんな少ない材料でカップケーキになるだなんて信じられないような組み合わせである。
お菓子作りというと、もっと殺伐としたものだと思っていた。
ずらりと並んだ銀の調理器具にノリの効いた清潔なエプロン。そして大型オーブンにやたらとさわやかな男。殺伐というより上流階級のイメージだった。と、いうかただの漫画の受け売りだった。
「じゃ、まずこの無塩バターの説明なのだけれど、無塩バターって何かわかるかしら?」
無塩というのだからきっと塩が入っていないのですね!
などは言えない。どう考えてもそれは小学生にでもできる答え方である。
「無塩って言うんだから塩が入ってないんですか?」
なるほど、恋ちゃんは小学生らしい。
「いや、塩化ナトリウムが入っていないという……」
赤さん、かっこよく言ってもそれは所詮塩です……。
どうやら、二人とも料理という分野を前にするとどうしようもなく思考能力が低下してしまうらしい。ちなみに私もだ。
「正解です。無塩バターには塩が入っていません!」
そんな事を思っていたのだが、どうやら彼のお母さんはその答えを待っていたようで、ババーンという効果音が聞こえてきそうなくらい胸を張って赤さんの大きな胸にも負けないたわわな果実を揺らしていた。しかし、言っていることはたいしたことはない。つまりはこの会話は初歩的な事を確認しているだけなのだ。
それだというのになぜこんなにもやりきった感があるのだろうか。
「正確には塩分なのだけれど、この無塩バターはお菓子を作る時にはよく使うので覚えておいてくださいね」
「普通のバターじゃだめなんですか?」
もう、学校気分である。質問し放題だ。
「有塩バターでもいいのだけれど今回のような膨らむお菓子には適していないし、少し味がくどくなってしまうことがあるから無塩バターを使うのがいいわね。あ、もちろん塩を少量入れることによって甘さをより引き立てるという技術もあるから一概にだめだとは言い切れないけど、お菓子をはじめて作るうえで一番必要なのがレシピ通り作ることなの」
何を当たり前の事を言っているのだろうかと思ったが、彼のお母さんの顔はいたってまじめだった。
「普通の料理みたいにこれくらいで良いか。だとかこれくらいかな? ってのは論外。グラム単位でしっかり計って手順を追って確実に作ることが大切よ」
「は、はい」
なんとなく頷かないとまずい気がした。一瞬だがそこに何かよくないものを見た。
「じゃ、続きだけどこの無塩バターは常温で放置しておいて軽く柔らかくしておきます」
ボールの中にはすでに少し四角を保っていない無塩バターがあった。
「さて、次に小麦粉なのだけれど、これは振るっておきます」
「振るう?」
頭にはてなマークを浮かべた私達に、彼のお母さんは笑顔で銀のふるいをしゃかしゃかとならした。
「市販の小麦粉というのは一度このふるいにかけて粒を小さくしておく必要があります」
「なぜですか?」
「そのまま入れるとダマになったりするのでよくありません。あとは粉に空気を含ませて焼き上がりをふっくらとさせるためです」
ダマと聞いて何のことかと首を傾げたが、それも後で説明があるのだろう。
「じゃ、粉をふるうのは恋ちゃんにやってもらおうかしら」
「は、はい」
粉をふるうだけである。しかし、恋ちゃんは震えていた。なにせ私達は切る溶かすだなんてことが出来なかったのだ。何事においても慎重に動かなければ大惨事になりかねない。
「そうそう軽く振るうだけでいいからね」
ふるいに適量の小麦をいれ、トントンとふるいのふちを叩くだけで細かい粒が落ちていく。なるほど、これなら誰でも出来そうだ。
「次だけど、卵をこのボールに割りいれて攪拌(かくはん)してもらえるかしら?」
「かくはん、ですか」
「かくはんね」
「確立反射の事ですか」
「かくりつ、え?」
精一杯の知識を動員したのだが彼のお母さんの反応を見る限りどうやら違うらしい。よくよく考えればわかることだった。
「攪拌って言うのは簡単に言うと混ぜる事よ」
「なるほど」
初めからそういってくれればいいものの、専門用語というのはなんともわかりにくいものだ。
「じゃ、これはどっちにやってもらおうかしら」
「わ、私がやります」
勢いよく名乗り出たのは私ではない。つまりは赤さんだった。
卵を割って混ぜる。なるほどふるいにかけるよりは難しそうではある。
それなのにどうしてあんなに簡単に名乗り出たのか……まさか、最後は難易度がもっと高くなると見越しての逃げの一手か。
「はい、卵」
卵を渡された赤さんは特に動揺することもなく卵を適当な角にコンコンと当ててボールの中に敵わよく割りいれていく。勿論殻は入らない。
「あら、上手ね」
もはや小学生が母によくできたねとほめてもらうようなレベルの出来事だったが、赤さんはそれでも嬉しそうに頬を染めてうつむいてしまった。
ふむ、少し考えてみよう。
料理、赤さん、卵。
私の脳内のコンピュータに単語を入力する。検索結果はすぐに脳にフィードバックされる。思い出した。赤さんは料理の特訓をしていた。しかも御題は、最近自分が食べた少し焦げ付いたあの卵焼きだったはずだ。
なるほど卵を割るのなんてもはや朝飯前だということなのだろう。
「はい、攪拌機」
そういって赤さんが渡されていたのはハンドミキサーだった。なるほど、流石に手動の泡だて器では日がくれてしまうかもしれない。モーター音とともに卵が混ざっていく。
ハンドミキサーがボールのそこを叩いてガリガリと音を立てるたびに赤さんは体をビクリと震わせたが、大丈夫だと何度もなだめられて卵の攪拌に成功する。
「じゃ、ここにグラニュー糖を入れるからまた攪拌させてね」
無言で頷いた赤さんはまたハンドミキサーのスイッチを入れて攪拌を開始する。
「おわりました」
言ったのは恋ちゃんだった。
「あ、こっちもです」
赤さんも終わったようだ。
「さて、後は恋ちゃんと赤さんの二つを混ぜ合わせて残りの材料、つまりチョコとバターを入れて混ぜるだけなのだけれど、美穂ちゃんにお願いできる?」
なんと、私には一番重要そうなパートが案の定回ってきた。
「が、頑張ります」
NOという選択肢はないと思ったので、出来るだけ失敗しないことだけを考えて調理することにした。
「はい」
二人から材料を渡される。
私はそれらをボールに入れ替え、ゴムベラを使ってぐるぐるとまぜる。今回はすべて混ぜてしまうのではなくプレーンとチョコの二種類を作るらしく二つのボールに生地は分けられた。
そういえば、サクッと混ぜるというのを聞いたことがあるがいったいどういった状態の事をサクッと混ぜるというのかわからない。
「美穂ちゃん、もう少し切るようにして混ぜてみて」
なるほど、きるように混ぜる事をさっくり混ぜるというらしい。
私はサックリとプレーンの生地を混ぜ合わせ、そのままチョコの生地も混ぜ合わせる。
「終わりました」
混ぜ終わった生地を差し出し、次の指示を仰ぐ。
重要なパートかと思ったら案外そうでもなく少し肩を落とす。しかし、よく考えれば他の二人のやったこともたいしたことではなかった。
ふと、二人の顔を見ると二人も同じ事を考えていたらしく、少し残念そうである。
「後は型に入れて焼くだけ。簡単でしょ?」
そういって微笑む彼のお母さん。簡単ね、なるほど、私達にもできそうである。一応火を使ったり包丁を使ったり出来る年頃なのだから緊張さえしなければどうということはない作業工程だ。
「ほらほら、また作業の手順は書いてあげるから、はやく型に入れて焼きましょう」
肩の力が抜けたからか、私達は特にミスすることなく型に入れる工程を終わらせた。
「じゃ、焼きましょうか」
厚手の紙製で出来たカップに流し込まれた私達のケーキは、彼のお母さんが暖めていたらしいオーブンにゆっくりと入っていく。
カチンと音がなり、扉が閉まったのを確認して私達はオーブンから離れた。出来上がりは30分後らしい。
「もう二月になるのかぁ」
ケーキが出来上がる間、私達はリビングでくつろぐようにと言われ、なんとなくみんなで一つのソファーに腰をかけた。
「そういえば、美穂がこっちに来てからもうすぐで一年になるんだね」
ふと、隣に座っていた恋ちゃんがそんな事を呟いた。
思えば、出会いからして私と彼、そして恋ちゃんはこの能力に振り回されてきた。
出会ってすぐに能力にかかり私を付回すことになった彼、私の能力で危険にさらされた生徒を守ったと勘違いしてあこがれるようにして私に近づいてきた恋ちゃん。それが今ではずいぶんと変わってしまった。彼に関しては私の心をかき乱す存在になり、むしろ私が追い回している。恋ちゃんは私に向けていた尊敬のまなざしは失せ、ライバルであり友達をみる熱く優しい瞳になっている。色々なことがあったが、すべて始まりは今までうらんでいたこのサカサマサカサなのだ。この能力もそう悪いものでもないのかもしれない。
昔では考えられなかったゆっくりとした空気が流れている。すこし、心が落ち着く。出来ればこのままゆっくりとしていたい。
「それに、もうすぐ卒業」
恋ちゃんの反対側に座っていた赤さんは、ぼんやり座りながら自分の世界に入ろうとしていた私の妄想を破壊させるには十分すぎる現実を突きつけてきた。
「卒業、か」
卒業といえばみんなと離れ離れになってしまう。いずれは離れることになっていたのはわかっていたが、ふと気がつけばもうそんな季節なのだ。出来ることなら離れたくない。がこればかりはどうしようもないのかもしれない。
しかし、あきらめはつけられなさそうだった。それほどにこの関係は居心地がいいのだ。
「それに、そろそろ、あいつにも言わないといけないのかもしれないね」
恋ちゃんの言葉に何を誰に、とは言わなくともここにいる三人の共通の悩みといえば一つしかなかった。
彼、つまりは白金祐斗に関する問題である。
今日ここに来たのも、誰も言わないがきっと彼へ送るバレンタインデープレゼントの練習だろう。
「言わないといけないのかな……」
「いわないとあの鈍感は一生経っても気づきやしないわよ、美穂」
そこには同意をするのだが、私が言いたいのはそういうことではない。
誰かが選ばれるということは、他の誰かを切り捨てられるということなのである。
もっとも、誰も選ばれないという可能性もあるのだが、そんな事は出来れば御免被りたい。
「いつまでもずるずるってのも癪に障るし、今度のバレンタインデーでいいんじゃない?」
「そうねー」
この二人、私を挟んでさもなんでもないことかのように重要な事をあっさり決めてしまった。
「え? え?」
「三人のうち誰が選ばれても、恨みっこなしだからね」
「わかってるわよ」
困惑する私をよそに、笑顔で言い合う二人。
バレンタインデーはチョコレート受け渡しデーではなくチョコレート戦争の日となった。
「三人ともーやけたわよー」
キッチンから聞こえてきた声で私の両サイドにいた二人は立ち上がり、元気よく小走りにかけていく。
「こ、こ、告白?!」
私は頭を抱えてその場にうずくまった。
キッチンからは楽しそうな笑い声と、ほんのり焦げてしまったチョコの香りが漂っていた。
私は混乱する頭の中で、先ほど自分の考えたこのままずっといたい。と願った事を思い出して奥歯をかみ締めた。