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第83話〜前向きな一歩

「まったく、あなた達と来たら……」
 あきれ気味というよりあきれていた。
「まぁいいです。早く席について」
 顔を半分隠すようにして手を当てていた如月先生は、のんびりと扉を開けて入ってきた私たち三人を見てそう言うと小さくため息をついてからまた黒板の方向に向き直った。きっと後で話しでも待っているのだろう。少し憂鬱になった。
「じゃ」
「あ、はい」
 彼は陽気なまま片手を小さく振ると、自らの席にするすると移動していってしまった。
 ふと、不思議そうな顔でこちらを眺めている藤村君と目が合う。すこし不機嫌そうなしぐさで藤村君が指で示した先の机の横にぶら下げられているビニール袋からは私と赤さんが頼んだ飲み物一式がわずかに透けて見えていた。そう言えば空気が読めないからといって自動販売機では買う事のできない紙パックの500mlのジュースを注文し、私達は藤村君には強制的にお暇いただいたのだった。いやはや、こういうときは空気のように霧散してしまうのにどうしてこうも面倒な人なのだろう。あの目は、あきらかに私達に何かがあったというのに気づき、しかもよりによって私に説明を求めているようだ。
 嫌なところで鋭いのだ。なのになぜ空気が読めない。もしかしたら、意図的に空気を読んで裏をかいているのかも知れない。だとしたらそうとう……。いや、考えすぎだろう。
「黒須さん、あなたは立ったまま授業が受けたいのかしら?」
 少し怒りぎみ口調の如月先生の声を受けて周りを見てみれば、クラスメイトの目が私を見つめていた。少し殺気のようなピリピリしたものも感じるが、それはきっと今の二月という時期をかんがみてみれば当然の事なのかもしれない。なにせ受験は人生を決める上であまりに大きなウェイトを占める。
「す、すいません」
 あまり視線に慣れているほうではないと自負しているので、すぐさま地面との対話を開始しながら自分の席へと向かう。よく床の汚れが見える。
「えっとどこまで行ったかな?」
 黒板に書かれた公式と計算式を眺めながら机から教科書とノートを引っ張り出す。幸い、私の机の中は誰かさんのように無法地帯には成り下がっていないのですんなりと見つけることができた。
 如月先生先生の声に隠れるようにしてがさごそと小さく聞こえているのは、うわさの無法地帯の持ち主である恋ちゃんの方向だった。恋ちゃんはその性格と同じようにいろいろなところでワイルドだ。クラスが試験だの何だのと目をぎらつかせながら学び舎でしのぎを削っているというのに、教科書が見つからないとわかるとぼんやりと窓の外を眺め始めてしまった。
 恋ちゃんは、何かを思い出したように扉の向こうに流れる雲を眺めながらふっと頬を緩めると、頬杖をつきながらこちらに首を向けた。たぶん何も考えていなかったのだろう。私と目が合うと、私がどんなに練習したって出せそうにない極上の笑顔を浮かべ、口の動きだけで何かを伝えてきた。
 生憎、私は読唇術なんて高度なものは体得してはいない。しかし、このくらいあからさまな唇の動きなら体得の必要もないだろう。
(ど・う・い・た・し・ま・し・て)
 誰にも聞こえないような小さな声で、しかしそれでも口を大きく動かし恋ちゃんの言葉に答える。
 伝わったのだろう、恋ちゃんはまたにっこりと微笑むと頬杖のまま、今度は如月先生の方向を向いて眠そうに目をとろんとさせているところを見ると、このまま恋ちゃんは聞いてもいない授業をのんびりと受けることにしたようだ。受けるという表現には若干の疑念は残るが多めに見ることにしよう。
 私も授業を受けようと正面に向き直るが、どうも気が入らない。それもこれも、恐らくはついさっきのトイレの中でのことが原因だというのはわかっているのだが、どうしても認めたくないことがあったりするのだ。
 物事はこれまでに無く好転した。いや、好転しすぎた。私は仲直りできたら良いな、とは思っていたものの、抱き合うような形になることまでは望んでいない。しかも、私が仲直りしてほしいなと望んだのだ。
 それは一般の、そう、それこそ赤さんや恋ちゃんなら普通だろう。望むという行為自体に罪は無い。しかし、私は異能、しかもよりによって思ったことが逆転するサカサマサカサなんて迷惑なものをしょっている。
 最近、平和すぎて少し失念しがち、というより失念しているのだが、私が普通に祈ったり願ったりしたことが現実に起きている。嬉しいことなのだが、なぜ?
 ニュースで異能が直ったなんて報道は聞いたことがないし、直るものだとも思っていない。何せこれは病気というより一種の罰のような気がしてならないからである。
 それだというのに普通だ。この頃普通すぎる。彼の望みのあーちゃんとやらも生きているらしいし、私の望んだとおり、二人は仲直りした。そう、私の思ったとおりだ。
 あるいは、物事はどこか致命的なところで歯車がいかれてしまっており、こんな小さなことに構っているほど暇ではなくなってしまったのだろうか。
 なにか、致命的な何かが迫っているような気がする。それは、日常をゆっくりと侵食し、いつかこの日常を取って代わる。そんな気がしてしまう。
 ポケットの中にある携帯を如月先生に見つからないように取り出してカレンダーを確認する。
 
――ッ
 
 嫌な圧迫感の正体がわかってしまった。もれそうになった声を震える片手で抑えながら震える手で携帯をポケットにしまいこむ。
 私の日常が音を立てて崩れた。
 なんということだろうか、今は二月。気がつけばバレンタインデーはそこまで来ていた。
 料理が出来ない私にとってはチョコレートを作るなんて事は至難の業に違いない。なぜなら、この前チョコの作り方について聞かれたとき、溶かして固めると答えてチョコではなく回りを固まらせたのだ。しかも、チョコは直接火にかけてはいけないらしい。なんでも、湯煎というテクニックが必要なのだ。
 生チョコに石畳チョコ、トリュフにチョコパイ。名前は知れど作り方などもちろん知らない。チョコ、といえばその独特の苦味と同じようにして少し苦い思い出があるのだが、今回はそんなことは思い出さなくても良いだろう。
 とりあえず目先の問題はバレンタインデーに向けのてチョコの調達方法と、この能力の全容を把握することである。
 優先順位的には低くなってしまうが、今回の件で彼と恋ちゃんの間にあったあーちゃんという子の存在もどこか引っかかる。そして、なぜが今回の事を円滑に行いすぎた赤さんの事も気にかかる。
「起立」
 がたがたと音を立てて周りが席を立っていた。私も周りにつられてあわてて立ち上がるが、いつの間に授業が終わってしまっていたのだろうか。時計を見ても早めに終わったわけでもなく、普通に時間は過ぎていたようだ。これだから考え事には適さないんだと一人ため息を漏らす。
「礼」
 いつもどおり決まりきった挨拶をし、席に腰を下ろす。あたりはすでにざわざわと音を立て始め、授業の終わりを体感させてくれる。
「バレンタインね」
 口にして笑ってしまう。バレンタインだなんてのんきに考えてみたが。やはり能力の事が気になる。最近めっきり発動を見ていないが本当にどうしてしまったのだろうか。
「美穂、そういえばもうすぐバレンタインデーね」
「そうだね」
 少しぎこちない笑みで話しかけてきた恋ちゃんもきっとレシピがわからないのだろう。
 大丈夫私もわからない。と、言おうとして太陽にかぶって表情の見えない恋ちゃんと、文化祭のときに顔の無くなったクラスメイトがふとダブった。
「うっ」
 それは猛烈なストレスとして私の精神を汚染し、吐き気を催す。
 そうだ、私はどうして幸せそうにこんな事をして入れるのだろうか。私の性でここにいる人たちは一度、死んだのだ。ずたずたに引き裂かれ、真っ赤な血を流してぼろ雑巾のような姿でこの床に投げ出されていた。私のせいなのだ。しかし、何の因果か憎むべきこの能力によってどうにか物事をリセットした。あのときほどこの能力に感謝したことは無かった。
 皮肉なものである。能力がなければこうならなかったというのに、その能力に感謝するとは。
「だ、大丈夫?」
 心配そうに私を覗き込んだ恋ちゃんに何とか微笑を返し、ぐらつく視線で前を見た。
 彼が居た。
 彼も心配そうな目で私を見ていた。
 そういえば、あのときの事を彼は知っている。唯一の目撃者であり生存者なのだ。しかも期間による記憶捜査も受けずに記憶が残ったままである。それなのに、クラスメイトを殺してしまった私と普通に接している。彼もまた、どこかで何かが狂っているのかという考えがよぎったが、すばやく首を左右に結ってその考えを振り払う。
「大丈夫そうじゃないんだけど」
 しかし、こうして心配してくれている友人を無碍(むげ)に扱うのは良くない。
 私はまとまらない思考を一旦停止して苦笑いに徹する。
 バレンタインデー。今は難しいことを考えずにそれに流れてみるのも良いかもしれない。と、いうかそうしたい。
 そうだ。日ごろお世話になっている彼に何も渡さないというのは逆に彼に失礼だ。だから私はチョコを作るのだ。決して逃避ではない。
「恋ちゃん」
「なに? やっぱり気分が?」
 背中を伝う冷や汗を感じながら練習した笑顔を向ける。
「チョコ、一緒に作らない?」
「え?」
 恋ちゃんは私の突然の誘いに戸惑いながらも、それじゃあ赤も呼ぼうと元気に歩き出した。
 一度だけ彼のほうを振り返ると、彼はどこか心配そうな瞳で私を見ていた。そんな視線を振りほどくようにして恋ちゃんを追って赤さんの教室に向かう。
 これは逃避ではない。
 現実だってしっかり見ているし今後の事も見えてる。能力のことだってどうにかなるし、あーちゃんだってきっとどうにかなる。
 だからこれは逃避じゃない。
「まって、恋ちゃん」
 私はすべてを吐き出すような長いため息を吐いてから恋ちゃんを追った。
 さぁ、こんにちはいつもの日常。
 さようなら、異常な毎日。

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