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第77話〜疑い

 あの葡萄は、きっとすっぱいに違いない。だから、取らない。決して、取れないわけではないんだ。
 さて、私は賢い狐なのだろうか。それとも、諦めずに挑戦し続ける哀れな狸か、私のほしいものは、いったいどれ程の魅力があるのか。
 私の手元には一枚のプリントが握られていた。それは、何度も何度も折られ折られ、少し力を入れれば、そこから破けてしまいそうなほどきつく折りたたまれた、私の葡萄だった。
 朝、彼のデリカシーの無い言葉によって、一部女子が冬の間に蓄えたつつけば震える余計なものを思い出し、戦慄した。人間、誰にでも目を背けたくなるようなことはある。ただ、それにどう対処していくかが問題なのだ。このまま真ん丸と美味しく実るか、それとも憎きコレステロールを退治するか。それが今回は後者だっただけである。
 冬、動物達が秋の間にたらふく蓄えた脂肪分をゆっくりと燃焼しながらただひたすら睡眠に時間を費やし、暁を待つ季節。もともと、動物は寒さに耐えられなくなり冬眠をするのだ。
 しかし、私達には十分な暖かさが用意されていた。秋に良く食べ後悔し、冬には恐ろしいイベントたちによって、私達の食覚が刺激される。そして、また後悔。世界中の女性はこの悪循環に抗えず、新しい年の到来と共に、ダイエット戦士へと転生を果たす。かく言う私も、その一人というわけだ。
 さて、華麗なるジョブチェンジに成功した私だが、元々の学生と言う職業はもちろん健在である。いわば、学生戦士という肩書きである。
 そんなダブルジョブの私が気にかけているのは、お腹にすむ魔王の事だけではない。私は手にした葡萄ことである。私は進路希望調査をもう一度確認しながら、彼が進路指導質に呼び出されたときの事を思い出す。
 一体、何故彼は呼び出されたのだろうか。もしかして、また進路希望を出さなかったのか。いや、それならば、夕日差す、この寂しい教室で、一人でいじけている自分も呼ばれるはずである。それとも、私は先生達から見て、そんなに重要視されていないのだろうか?
 答えの出ない堂々巡りの私の頭は、思考のスロットルが全開に近づき、もはやショート寸前である。おかげで今もこうしてたかが紙切れ一枚を指定の場所、指定の人物に届けることが出来ないで居る。
「いくぞー」
「よしこーい」
 グラウンドからは金属バットのいい音が響いている。しかし、相変わらず彼らの言語は理解しにくい。いったいなんと言って掛け声をかけているのか、果たして、それを本人達はしっかりと認識しているのか、くだらない事を考えて現実から逃げてみる。
「あ……」
 現実逃避ついでにグラウンドを覗くと、沢山の運動部に混じり、紺のジャージを着た一人の生徒が走っていた。この学校は各学年でジャージの色が違う。今グランドをぐるぐると針って居る紺と言えば、私達三年生で、しかも、あのショートカットに綺麗なフォーム。見間違えるはずが無い。
「恋ちゃん」
 戦友の名をつぶやき、本当に戦っているのだなと感心してしまう。恋ちゃんは遠目から見ても分かるくらいカロリーを消費した後のようで、はぁはぁと肩を上下させて息までしている。
 恋ちゃんは懸命に戦っている。私はというと、こうしてたかが紙一枚でひよっている。
「よし!」
 友人の頑張りに触発され、自分にも出来るとまじないのように心の中でつぶやき、私は職員室へと向かった。目指すは担任、如月先生のもとだ。
 
 
 
「失礼します」
 ニ、三度ノックをしてから職員室の扉を開けた。とたんに好奇の視線が私に集まる。やましいことは特に無いのだが、私は蛇に睨まれたカエルのごとく動けなくなってしまう。しかし、実際はこんな時間に職員室に来た自分が異分子なので、視線が集まるのは当然といえば当然である。
「あー黒須さん。どうしたんだ?」
 地獄に仏、地獄の中に蜘蛛の糸。固まった私に声をかけてくれたのは、目的の人、如月先生だった。
「あ、あの、進路希望調査表を……」
「お前と言い、あの白金と言い……頭が痛いよ」
「す、すいません」
 こめかみをぐりぐりと押さえる如月先生を見て、咄嗟に頭を下げてしまう。
「いや、黒須さんのは大体予想がついてるからいいんだ」
「予想、ですか」
「ま、黒須さんの事だから最後の踏ん切りがつかなくて。とかそんな事だと思ってたよ」
 そう言うと、如月先生は私の手元から進路希望調査表を持っていってしまった。流石教師、腐っても教師ということなのだろう。私の心のなどお見通しということか。
「ふむ」
 奪い取った私の紙を見て、如月先生は意味深に考え込むようして頷くだけだった。
「あの、なにか問題が?」
「いや、ない」
 もしかして、設定するレベルが高すぎたのだろうかと不安になる。しかし、如月先生の答えは否。
「コレは、私の予想の中でも極めて確率の低かったパターンだよ、黒須さん」
 そう言うと、如月先生は私の第一志望を指差した。
「君の性格からして、ここが一番手に来るのが普通だ」
 そう言って、私の第二志望を差す。確かに、彼の言葉が無ければ今の第一志望など選ぶ事無く、先生の言うとおりの事をしていたはずだ。
「さて、誰の後押しがあったのやら」
 やけにニヤニヤしならがら、如月先生は机を漁り始めた。そのニヤケ顔に少しの殺意を感じながらも、如月先生を待った。漁る、といっても、如月先生の机は整理されており、探し物には数秒とかからなかった。
「物は聞きようだ、黒須さん」
「何でしょうか」
「こいつを見てくれ」
 取り出されたのは、一枚の進路希望調査表。
 名前の欄は、確認できない。確認できるのは、その内容だけだった。
 しかし、先生が言わんとする事を確認するには、それだけで十分だった。
 そこに書かれていたのは、超一流大学。俗に言う、Sランク大学だ。その大学出身だと言うだけで会社はエリートコース、昇進まっしぐら。さらには各界にも根強いパイプを持つ、世間一般で知らない人は居ないほどの超有名校だ。この学校の偏差値は低くは無いが、高くも無い。それに、そこそこ上位を取っている自分ですら、無理だとはなから考えに入れていなかった。その大学が今、目の前にはある。
 一体、どんな馬鹿な天才がこんな物を書いたのだろうか。氏名のところを見ようとするが、きっちりガードされていて見ることはかなわない。代わりに私は、頭の中で自分より順位が上だった人たちのリストを作成した。もちろん、覚えているのは名前とおおよその点数だけ。私にとって恋ちゃん等の友達以外は特に覚えるほど重要なものでもないし、もしもの時の被害を最小限に抑える為の私なりの一種の工夫だ。
「どう思う?」
 如月先生の問いに困惑する。と、言うかこんなものを見せてどうしたいのかわからない。凄いとは思うがそれ以上は何も無い。
「無謀ですね」
 私のコンピューターの出した結果だった。私より上位を取ろうと、やはりレベルが違いすぎるのだ。それこそ、一朝一夕で叶うはずも無く、よほど日ごろから努力をしていないと無理に違いない。ま、せいぜい頑張ってもらいたいものだ。
「黒須さんもそう思うか」
「はい」
「だろうな」
 そういいながら、ため息をつき、如月先生は机に紙を置いた。今度はきちんと氏名が読み取れる。
「白金、祐斗? あの、先生……」
「この学校には白金祐斗は一人しかいない」
 私の言おうとする事に気づいたのか、如月先生は私が言おうとした質問に答えてくれる。
「じゃあ」
「もちろん臼じゃなく白だ」
「そうですか」
 一瞬ESPかと思ったが、如月先生もある程度はこの反応くらい予測できるだろう。なにせ、手元にある紙にはしっかりと、学年でもそんなに目立った成績を残したことの無い白金祐斗と言う彼の名前が書いてある。誰かの嫌がらせという訳でもなさそうだし、何の嫌がらせになりはしないというのはすぐに分かるはずだ。
「困ったものだ」
 如月先生は本当に困っているようだった。
「いったい、誰がこんな知恵を吹き込んだんだか」
 そういいながら、如月先生は私をじっと見つめた。
「本当に、誰の後押しなんだろうな」
 次に如月先生は、私の進路希望調査表をひらひらと掲げて言う。だめだ。ばれている。
「ま、遊びじゃなさそうだし、真剣に向き合ってくれればそれで良い。若いんだからどんどんやってくれ」
「な、違います。彼とはそんな関係じゃないです。それに、恋ちゃんや赤さんも居ますし、麗子さんや可憐さんだって……」
 言っていて自分が落ち込んでいくのが分かる。ここで、はい。付き合っています。もうラブラブです。といえたらどんなに楽だったか。それもこれも、しっかりとアクションを起こさない自分の責任だ。最低だ。もう消えたい。
「はて、私は勉強と向き合ってほしかったんだけどな」
「え?」
「しかし、なるほど……」
 冷や汗が吹き出た。なにやら勘違いをしていたようだ。と、いうか嵌められた?
 そうかそうかと呟きながら笑う如月先生に、どうしたものかと考えようとするが、あまりの出来事にしっかりと物を考えられない。
「あの後藤に、違うクラスの西条まで奴の毒牙に……」
 そこに居たのは、如月先生と言う悪魔だった。悪魔は心底楽しそうに口元を吊り上げ、何かに走り書きを残していた。差し詰め、悪魔ノートといったところか。
「あ、あの、せ、先」
「安心しろ。別に誰にも言わないさ」
「そ、そうですか?」
「絶対だ」
 言葉ではそういったものの、如月先生は私が口を滑らせてからは、終始気味の悪い笑顔を浮かべたままだ。どうも信用ならない。
「さて、用は済んだだろ。帰った帰った」
「ほ、本当の本当に言わないでくださいよ」
「わかっているとも」
 笑いをかみ殺したようにして子たる先生を背に、本当に大丈夫なのかと不安を抱きながら、なにも出来ない私は、そのまま職員室を後にした。
「あ」
 職員室から出て数分おいてから気づいた。そういえば進路の事について聞いておくのを忘れた。しかし、今戻るのも気恥ずかしいので今日は諦めることにする。
「白金君……」
 進路希望の第一に挙げられていた大学を思い出し、まさか、本当に私の勘だけで動いているのかと考えてみる。そうだとうれしい。と感じる反面、もし本当なら少し怖い。なぜなら、私の言葉が彼の人生を変えてしまうのだ。しかも、サカサマサカサなんて妙な能力を持った私の言葉をだ。
 それと比べ、私は本当に彼の言葉を受けて行動している。彼にどんな意図があったかは分からない。何故いけると思ったのかも不明だ。しかし、私もなんとなく彼なら慣れるんじゃないかと思っただけなので、そういったことから見れば、私と彼では同じなのかもしれない。
 総理大臣と本を書く人に。スケールの大きさは異なれど、私達は目標を見つけられた。後はそこに向かって進むのみである。いつもなら途中でくじけてしまうけれど、今回は違う。なにせ、彼が行けると言ってくれたのだ。彼の言葉を嘘にしないためにも、私は頑張らないといけない。

 久しぶりにクリアな頭で本の事を考えていると、いつの間にか家の手前まで来ていた。やはり、人間は何か一つの事に集中するとそれ以外、つまりは時間や場所の概念まで消失させてしまう不思議な生き物らしい。もしこれが野生の動物なら、危機感の欠落とみなされ、いまごろ自分より上位の生物のお腹の中でどろどろのスープになっているに違いない。
 しかし、幸いにも私は野生でも野良でもないのでそんな危険におびえることも無く、難しい危機感だの第六感なんかは働かさなくとも安全なのでぼんやりと彼の家を眺める。
 彼の家に上がったのはごく僅かだったが、私にはおぼろげながらあの家の平面図が想像できる。そんな何の厄にも多々なさそうな平面図に描かれた彼の部屋にある、私の部屋に一番近い窓、近く遠き、私達の関係のような窓。今日も窓のはカーテンがかかっており、中の様子は窺えず、風に揺られひらひらと舞うカーテンだけがやけに目に焼き、風に誘われるようにして踊るカーテンはどこか小さな女の子がワンピースを着て元気にはしゃいでいるようにも見える。
「っ」
 カーテンがよりいっそうはためいたのを合図にするようにして、地面に散らばっていた朽ち果てた落ち葉をくるくると巻き込んだ小さな竜巻が私を横切り、彼が綺麗だとほめてくれた何年も切っていない長い髪もはためかせた。
「冬の旋風……」
 去っていく小さな竜巻を尻目に、私は乱れた髪を適当に整え、もう一度、彼の部屋の窓に視線をやった。今度のワンピースの少女は死んだように動かなかった。
「誰なの?」
 ぎりっと言う歯軋りと共に口の中に鉄の味が広がり、拳に力が入ったのが感じ取れた。それは怒りと言うより、憎悪に近しかった。
 彼の笑顔、困ったような苦笑い、戸惑いながらの苦笑い、変わり者の私を拒絶しないやわらかい笑顔、皆にむけられていた彼の笑顔、それが今日、目の先で動かなくなったワンピースの少女のように死んだ。動かなくなった。固まった。
「君があーちゃんかい?」
 彼の目を忘れることが出来ない。今までいろんな彼の目を見てきたが、あんなにも哀れな瞳は初めてだ。
「私は、黒須、黒須美穂……」
 つぶやいて、またぎりりと音がした。私を含め、多くの女子が彼に思いを傾け居るにもかかわらず、彼は私達の好意のベクトルを無視し、一人過去と言う幻想に思いのベクトルを向けていたのだ。これを無情と言わずとして何といおうか。
 人には過去があり、過去があるからこそ未来が存在し、現在という時間軸に存在することが可能である。すなわち、私が殺人鬼にみーちゃんと呼ばれていて、しかも私もその殺人鬼に心引かれ、そして殺した。それも過去であり、事実である。しかし、私達は過去以上に現在、そして未来を生きなくてはならないのだ。それだというのに彼は一つの過去の欠落と共に、私達の現在、いや未来の喜びを奪ったのだ。
 あーちゃんがどれほどの女性で、あーちゃんが誰なのかは分かりはしないが、早くいつもの彼に戻ってほしいものだ。
「ふう……」
 すこし熱くなった頭を休ませ、あーちゃんについて考える。
 私は知らない、または勘違い、もしかしたら私が忘れているだけかもしれないが、彼が言うにあーちゃんは存在、活動して、私の知らない彼を知っているはずなのだ。
 私の知らない事は大抵は本で事足りるのだが、今回はそうもいかない。と、なると行動は限られてくる。
「っと……」
 取り出した携帯の数少ないメモリから一人を選び、早速通話のボタンをプッシュする。電子的なコール音が何度が響いた後、相手は驚いた様子で私を出迎えた。
「どうも、赤さん」
「ど、どうしたの美穂」
 呼吸は荒く、言葉は途切れ途切れ。いくら自分から電話をかけない私からのコールだからといって、これほど焦るのはおかしい。つまり、何か私に知られたくない、もしくは、後ろめたいことがあるという分かりやすいパターンだ。
「あーちゃんについて教えてほしいんだけど」
 瞬間、彼女の息が止まった。
「さあ? 私は何のことだか」
 流石は赤さん。伊達にクラスの男子に言い寄られても顔色一つ変えない女優だ。呼吸はいつも通り整っており、言葉遣いもいつもと同じ、いや、むしろいつも以上に作られたかと思われるほどの丁寧さである。
「そう、じゃあいいの」
 こうなってしまえば何も聞き出せないだろう。そう思って私は電話を切った。
「恋ちゃん……」
 次に恋ちゃんに電話をかけようとするが、やめる。どうせ、赤さんの二の舞になるに違いない。
 何故私が存在しないはずの虚像、つまりあーちゃんを追いかけるのかというのにはもちろん理由が存在する。
 彼が嘘をつくとは思えない。それもある。しかし、今回はそれ以上に恋ちゃんと赤さんの挙動が気になったのだ。そんな人は知らないと言った後、絶望していく彼を見た恋ちゃんは、確実に戸惑っていた。むしろ、何かに罪悪感を感じてそれから逃げようともしていた。
 そして、今回電話をかけた赤さんは、彼を見て確実に何かを言いかけていた。それは励ましの言葉か侮蔑の言葉かは分からないが、今回の電話で確実に何かがあるとわかった。
 あーちゃん、恋ちゃんと彼の過去、そして赤さんが飲み込んだ言葉。そのなぞを解決したとき、彼の笑顔は戻るような気がする。
 案外、彼のことだからすぐに戻りそうな気もするのだが、とりあえず私は決意新たに家に戻った。 

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