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第75話〜勘

 カランコロンと扉を開けると、不思議な鐘の音がした。
「いらっしゃいませ」
 黒須さんに付いてどれほど歩いただろうか、俺は少し冷えた体をさすりながら、スッキリと透き通った声と、暖かな風に出迎えられていた。
「あー、この前の子だね」
「お久しぶりです」
「今日はお友達も一緒なんだね」
「そうです」
 こちらを一瞥して白い歯を覗かせた店員らしき男は、真っ白な制服を着込んでいて、まるでパティシエかのように見えた。柔らかな笑顔にすらりと伸びた手足。そして、何よりも整った顔立ち。どこからどう見てもモテる要素満載のお兄さんと、黒須さんは時折笑顔を浮かべながら雑談をしている。
 黒須さんが誰と話そうと自由だし、俺が口出しをして黒須さんを束縛する権利はない。もちろん、理由もない。
 しかし、なぜだか楽しそうに話す二人を見ていると心がちくりと痛んだ。
「あ、ごめんごめん。君のお友達を待たせたままにしていたよ。君はそこの席にどうぞ」
「あ、はい」
 男は、俺を追い払うかのように席へと誘導した。俺は何も言わず、楽しそうに話す二人の横を通り過ぎた。やっぱり心が痛かった。
「はぁ」
 指定された席に座ると同時に、自然にため息が出た。
 俺はこの席に指定されて座っている。と思ったのだが、この店には極上の閑古鳥が飼われているらしく、店の中には人の気配すら感じ取ることが出来ない。
「綺麗だな」
 目の前のテーブルに人差し指を這わせ、確認するが埃はない。自分は姑かと少し笑いながらも店内を見回す。結果、床はぴかぴかに磨かれたままを維持し、電灯も埃の陰すら見えない。
 開店したてなのか、それとも単に人が来ていないだけなのか。とにかく衛生面は完璧だろうと思えた。
「喫茶ブルースカイ、ね」
 テーブルの中央に立てられたままの手書きメニューを眺めながら、俺はここの名前を知る。
 メニューの値段に修正が入っていたり、なにやら書き足したような跡がある事からも、この店の涙ぐましい努力が感じて取れる。
「しかし、見事だな」
 しかし、そんな努力もむなしく効果を示さなかったようで、もう一度顔を上げて店内をぐるりと見直してみるが、どこかに人が隠れているわけもなく、やはり客は俺と黒須さんだけのようだ。
「ふーん」
「うわっ」
 再びメニューに目を落とそうとしたところ、隣に知らない女性が腰掛けていた。
 何なんですか。と聞こうとしてのど元まで出かけた言葉を飲み込む。姿を見れば分かる。少し皺が入ってくたびれてはいるが、黒須さんと話しているあの、いけ好かない男と同じ制服を着ていることから、恐らくはこの女性はここの店員なのだろう。
「なるほど、君が家の馬鹿と同類の大馬鹿君ね」
 一体何がなるほどなのか、隣りの女性はいきなり俺の事を大馬鹿呼ばわりする。残念ながら俺はこの女性に面識はない。
「うん。聞いたとおり普通だね」
 女性はそう言うと、満足そうに俺の肩を叩いて黒須さんの元へと歩いていった。
「こんなところで油売ってないで、さっさと新メニューの続き!」
「わ、わかったよ」
 どうやら、女性は黒須さんではなく、黒須さんと話していた男に用があったらしく、目を合わせるなり早々怒鳴りつけていた。
 怒鳴られた男も、困ったように笑顔を浮かべ、黒須さんになにやら言葉を残して厨房らしき方向へと消えていった。いきなり馬鹿だの普通だのと言われたが、この際流してしまってもいいと思えるほどの働きっぷりだと、俺は心の中で女性に感謝した。
「ご、ごめんね。ここの人少し熱狂的だから」
 そういう黒須さんは頬を少し赤く染め、俺のほうを見ようとしなかった。一体どんな熱狂的なアプローチを受けたのやら。
「あの、黒須さんは」
「おまたせしました」
 何か俺に恨みでもあるのか、男は俺の言葉をさえぎるような絶妙なタイミングで頼んでもいないケーキを運んでやってきた。しかも、男の手にあるのはメニューに載っていないシフォンケーキだ。
「頼んでないんですけど」
「あぁ、サービスだから気にしないで。僕はそこの子に感想を聞けたらそれでいいから」
 その子、というのを強調するように言い残し、男はまた厨房へと消えていってしまった。
 一体なんだというのだ。黒須さんに気でもあるのだろうか。あからさま過ぎるこの態度に俺は、少々頭にきていた。しかし、冷静に考えると俺が怒る理由は見つからなかった。別に黒須さんが誰と話そうが、誰と引っ付こうが俺の感化するところではない。
 そんなことを気にかけなければいけないのは恐らく、黒須さんと引っ付いた男がする事だろう。
「食べないの?」
「あ、うん」
 ぼんやりと考え事をしていたせいか、黒須さんはすでに1/3を食べきっていた。1/3とはいったものの。もともと小さいサイズなので追いつこうと思えばすぐに出来る。
「いただきます」
 小さく手を合わせてからフォークを入れると、驚くほど簡単に切れた。
 漂うオレンジの香りに期待を膨らませ、一口頬張れば、口の中いっぱいにオレンジの香りと程よい酸味が広がった。
「なるほど」
 うまい。その言葉を決して口には出さず、飲み込んだ後も何度も反芻するようにして味を思い出す。
 そしてもう一口。やはりうまい。
 今まで俺はシフォンケーキをなめていたと少し後悔した。コレは家に帰って早速実践してみないといけない。
「すいません。そこのお姉さん」
「はい?」
 レジでぼんやりと座っていた、俺を馬鹿呼ばわりした女性をテーブルへと呼ぶ。もちろんこのケーキのコツ、あわよくばレシピを手に入れようと思っての事だ。
「このシフォンケーキってどうやって作ったんですか?」
「ケーキ?」
「こんなおいしいシフォンケーキ食べたことありません」
 女性は不思議そうにケーキについて熱弁する俺の顔を見て、それから黒須さんの顔を見た後に、おかしそうに笑った。男がケーキなんていうのがそんなに珍しいのだろうか。
「残念ながら、ケーキは私じゃなくて店長が担当ね」
 言って厨房の方を指差す。
「店長?」
「ま、この店には従業員が二人だから私は副店長になるわけだけどね」
 ふくよかな胸をさらに突き出し、女性は自信満々に俺に言うが、そんなことはどうでもいいし、興味はない。今、俺の興味はもう一人の店員。つまりは、あのいけ好かない男が独占しているのだ。
 
「白銀君!」
「ん?」
 黒須さんのシフォンケーキがいつの間にかすべて消失していた。やはり、女の子は甘いものが大好きで、そのための胃袋を多数所持しているというのは本当の事だったらしい。普段の黒須さんなら、食べるのにもう少し時間がかかるはずだ。
「いつまでそっちの方見てるの?」
 ややあきれたようにして俺に言う黒須さんを見て、ふと思う。
 もしかしたら、結構時間が経っているのではないかと。
「そんなに見てた?」
「それはもう、私の声なんて全然届かないくらいに」
「ご、ごめん」
 どうやら思ったとおり、黒須さんが瞬間的にケーキを食べてしまってわけではなく、俺が時間の置いてけぼりにされていただけのようだ。
「そ、それで黒須さんはここにはよく来るの?」
「今日で二回目」
「そ、そうなんだ」
 会話が途切れてしまう。俺は気まずい雰囲気を無視するようにして、残っていたシフォンケーキをモサモサと口に運ぶ。おかしい、さきほどまでの心地よいオレンジの風味がまったくしない。それよりも、なぜか異常にのどが渇く。
「ケ、ケーキおいしいね」
「そうだね」
 正直、味なんて最初方に感じただけで、今はもう何も感じない。
 恐らく俺をそんな体にしているのは、いつもは真一文字に結ばれた黒須さんの口元が、にっこりと笑顔を形作っているからに他ならない。麗子さんの時叱り、いつも笑わない人が笑うと確実にまずい。
「あ、あ」
 沈黙が気まずくて何か口にしようとするのだが、口が渇いてうまく話せず、尻つぼみになって言葉が消えていく。
「お姉さん」
「はい?」
「イチゴのショートケーキを二つ」
「かしこまりましたー」
 掃除道具片手に俺の横を通り過ぎようとしていた女性を何とか捕まえ、沈黙を打破する。黒須さんも、きっと、ケーキを食べれば今浮かべている作り物のような笑顔をやめてくれるに違いないと信じたい。
「話は?」
「は?」
「話、あるんでしょ」
 凍ったように固定された笑顔のまま、黒須さんは俺に聞く。ケーキを食べてもらえば何とかなると思ったのだが、ケーキが運ばれてくるまでの時間の事を考えていなかった。
「あの、ですね」
 背中を伝う嫌な汗をしっかりと感じながら、自分は一体何を話そうとしていたのかと必死に思い出す。目的がなかったわけではないはずなのだが、この極度のプレッシャーに気圧されてうまく思考回路が働いてくれない。
「お待たせしまし……た?」
 俺達の異様な雰囲気を感じ取ったのか、お姉さんは少し首をかしげたまま俺と黒須さんの前に一つずつ皿を置いた。
 カチャリという皿の音がやけにクリアに鼓膜に響く。ついでに、自らの心音もうるさいくらいに響いている。
「ご、ごゆっくり」
 結局お姉さんは俺達に何の言葉をかけるでもなく、営業マニュアルに則ってさっさと厨房へと退散して行ってしまった。
 俺の目算なら、あのお姉さんは恋のようにちょっかいを出してきてくれるタイプだと思っていたのに、大きな誤算だ。おかげで妙な間が空いてしまった。
「おごりだから、遠慮なく食べてね」
 返事はなかった。代わりに、かちゃかちゃというフォークと皿のこすれる音だけが返ってきた。それに習って俺もかちゃかちゃと音を立てる。
 ふと黒須さんのほうを見ると、本来イチゴの乗っているべき場所にもう何も残っていなかった。なるほど、黒須さんはイチゴショートのイチゴを先に食べる人なのか。
 しかし、それが分かったといって、そこから専門的な心理分析には発展しなかった。と、いうより俺には出来なかった。
「お、おいしね」
「そうだね」
 もはや、本当においしいと感じているのかも分からないような息の詰まる会話。正直、限界だった。
「あの、黒須さん」
「なに?」
「うっ……」
 満面の作り笑いに一瞬怖気づく。コレはアレだ、背後に阿修羅とか般若とかそういったものが見えた。
「話っていうのは、進路についてなんだ」
「進路?」
 黒須さんがそうつぶやくと同時に、阿修羅やら般若は帰宅なさったようで、先ほどまで苦しかった呼吸も普通に出来る。最後にとっておいたイチゴの酸味が俺を夢の世界へといざないそうになる。
「ほら、学期末に貰った進路希望調査表」
「あ、あぁ……アレね」
 復活した俺に反比例するように黒須さんの元気がなくなっていく。
「皆、どうするか決まってるのにいまだに決まってなくって、それで昔、俺に総理大臣にふさわしい。っていった黒須さんの話でも聞こうかな。って思ったんだけど」
「あの時の事……まだ覚えてたんだ」
 その言葉を聞いてほっと胸をなでおろす。正直なところ、数ヶ月前の話なので忘れているのではないだろうかと思っていた。事実、つい先ほどまで俺は忘れていた。
「白銀君は総理大臣になれると思うよ」
「ど、どうも」
 しかし、黒須さんはしっかりと覚えていてくれたようで、今に至ってもその意見を覆すつもりはないらしい。
「して、その心は?」
「私の勘」
「勘?」
 聞いて肩を落とす。この人はそんな非科学的な理由で俺を悩ませていたのだろうか。いや、単に自分の力ではなく他人に頼ろうとした俺も悪いのだが、それでもコレは溺れた者の掴む藁以下の役に立たなさである。強いて言うならば水だ。
 相手が勘だというのだから、そうなんだ。とでしかもう返せない。
「く、黒須さんはどうして大学受けなかったの? 黒須さんの成績なら推薦だって余裕だったんじゃないの」
「そ、それは」
 やってしまったかと思ったが、すでに時は遅く、黒須さんの視線は見る見るうちに下がっていった。
 俺の話はもうないと思って話題を振ってみたのだが、逆効果だったらしい。
 
「実は、自信なくしちゃって」
 数秒置いて、うつむいたまま黒須さんは消え入りそうな小さな声で答えてくれた。
「自信?」
「前までなら、物語の事だけ、本の事だけ。って集中できたんだけど、この頃どうも余計なことを考えるようになっちゃって」
「余計なことって?」
 反応はなかった。つまりは触れられたくないということなのだろう。
「ごめん。聞かないよ。じゃ、それが解決できたら、また物語の事だけを考えていけるの?」
「解決できたら、ね」
 憂いに満ちたような瞳で、黒須さんは何故か俺をじっと見つめた。黒須さんの黒く透き通った瞳に、吸い込まれるようにして俺の顔は近づいていった。
 目の前、数十センチには黒須さん黒い瞳があった。と、同時に、数センチ先には黒須さんの唇があった。
「ん――」
 先ほどまで存在していた黒い瞳が、まぶたによってさえ切られてしまう。しかし、以前俺の数センチ先には黒須さんの唇が変わらずそこにあった。
 僅かに高揚した頬、みずみずしく張りのある魅惑の唇。僅かに頬に感じる黒須さんの甘い吐息、そして閉じられたまぶた。
 あぁ、アレに触れたらどんな気持ちがするのだろうか。アレに触れられたらどんなに心地よいのだろうか。
 幸いに抵抗はなかった。これを了解ととるか、どうするか。幸い、脳の神経系のシナプスは絶えず俺にゴーサインを出し続け、それに抗うことなく一ミリ、一センチとゆっくりと俺は焔に誘われる夏の蟲のように黒須さんの唇へと吸い寄せられていった。
「やあ、君がそうかい」
「つ――!」
 聞こえてきた声に、弾かれた弾丸の様にしてあわてて黒須さんから離れる。
「いや、このケーキのレシピを知りたいなんて君、ケーキに興味あるの?」
「え、えぇ」
 やたらとうれしそうに俺に話しかけてきた声の主は、店長だった。
「いや、うれしいね」
 飛び出してしまうのではないかと思うほど、俺の心臓は元気に飛び跳ねていた。
「ところで、どんなところが良かった?」
 せっかく良いところだったのに。と男を睨むが、男は気にした様子もなく一人ケーキの話に花を咲かせている。
「ったく、なにやってんのよあんたは!」
「なにって、ケーキのレシピを知りたいっていうから……」
「空気を読みなさいよ!」
 店長は副店長に首根っこを捕まれ、猫のように引きずられていく。
 よかった。
 いや、まて。このままでは非常にまずいことになりかねない。それに空気を読めってこの人は見ていたかの言いようだ。
「いや、店長さん。ぜひレシピを教えていただきたいです!」
 おもむろに立ち上がり、引きずられていく店長に訴えかける。ここであの二人がいなくなってしまえば、俺はどうやってこのやり場のない桃色の空気を制御すれば言いというのだ。
 俺のことだから、きっと無言のまま終わってしまうに違いない。
「ほらさくら、あの人もそう言ってるんだよ」
「ったく」
 さくらといわれた副店長は、しぶしぶ店長を解放する。
「いや、理解者がいてよかったよ。ケーキが好きな一般の子に感想を聞くのも良かったんだけど、やっぱりもう少し専門的な事が分かる子と話をしたかったんだ」
 店長は子供のように一直線に俺の下に走り寄り、俺の手を掴んで鼻息荒く力説する。
「そうですか。実は自分もそろそろ手詰まりだったんですよ」
「美穂ちゃん。家の馬鹿がごめんね」
「ご、ご、ご、めんてな、な、なにがですか!」
 目を輝かせてケーキやお菓子について語る店長とそれを聞く俺、そしてそれを眺めるようにして女性陣二人は話し合っていた。と、いうか副店長はわざと聞こえるように言っているとしか思えない。
「類は友を呼ぶっていうし、馬鹿は馬鹿しく仲良くね」
 副店長は、あきれたようにして厨房へと戻っていった。
「違います!」
 去り際、黒須さんに何かを囁いたようだったが、黒須さんは顔を真っ赤にしてそれ否定していた。一体何を囁かれたのかは定かではない。
 
 
 
「また来てね、祐斗君」
「は、はい」
 俺の手にはケーキ。もちろん店長の作品だ。
「本当、家の馬鹿がごめんね。あと少しだったのに」
「何のことですか!」
 そう顔を真っ赤にして答える黒須さんの手にも、何かがぶら下がっていた。あちらは、副店長に邪魔したお詫びだ。とか言って無理やり持たされていたのを見かけたような気がする。
「またお越しくださーい」
 元気の良い二人の声に後押しされながら、俺達は帰路へとついた。
 
「く、黒須さん」
「な、なに?」
 やっぱり空気が息苦しかったので話しかけてしまった。やはり、自分がキスをしようとしていて、それを他人に見られていたのだから、その恥ずかしさは尋常なものではない。しかし、今回はただこの息苦しさを打開したいからという理由だけではない。
「大丈夫だと思うよ」
「え?」
「黒須さんなら立派な本を書けるよ」
 コレは俺の嘘偽りのない本心。というか、黒須さんにはそうであってほしかった。
「どうしてそう思うの?」
「それはね」
 少し間を空けてから俺は黒須さんのほうを向き、出来るだけ意地悪そうに微笑を浮かべ、手言った。
「勘、だよ」
「勘、か」
 俺達は、夕日の沈んでいく道を二人、笑いながら家へと帰った。

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