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第37話〜ビンタ

「く、黒須……さん?」
 暗闇にひっそりとたたずんでいたのは、この暗闇と同じような漆黒の長髪をなびかせた黒須さんだった。一瞬、幽霊かと思ってしまうほど黒須さんの気配は儚く。目を離せば消えてしまうのではないかと感じてしまうほどだった。
「こ、こんなところで何を――」
 先ほど恋を泣かせてしまったということもあり、後ろめたさを感じて二、三歩黒須さんから離れるも、かつかつと靴音を鳴らしながらいつもとは違った雰囲気を発する黒須さんに底知れない恐怖を感じ、情けなくたじろぎながらも俺が発した言葉も無残に遮られる。
「馬鹿」
 しかもそいつは、俺に二つの衝撃を与えてて去っていってしまう。なんとも無様なものだ。先ほどまでは一緒にジュースを飲んでいたと思えば今度は苦汁を飲まされるし、二人三脚の練習をしていたと思えばいつの間にか孤独と二人三脚させられている。
「何でだよ……」
 まだまとまらない思考を懸命に整理しようと考えながら、俺はひりひりと痛む頬をなでながらその場に立ち尽くした。
 空は広く、空に散らばる星達も無数で、自らがいかにちっぽけであるかを思い知らせてくれるだけで、何の解決にも気休めにもならない。目の前で寿命を迎えて気味悪くチカチカと点滅する電灯も、俺を危ないものを見るような目で見る酔っ払いも、何もかもが俺の相談相手にはなってくれそうにない。と言うか、所詮は他人同士なのだから相手の真意など汲み取ることが出来ないのだろうから相談なんてしても無意味だろうし、もしそれが出来る人間がいたのならばそいつはもうとっくに自殺しているだろう。なぜならば、他人が理解できると言うことは相手からの好意、尊敬などを感じることが出来、その反対の妬み、恨みすらも理解してしまうと言うことだ。俺ならばそんな状況は耐えることが出来ないだろう。本心を知ると言うのはとても恐ろしいのだ。
 人は本心を隠すために嘘をつく。自分のすべてを知られるのはとても怖いことだと体に刻まれたDNAが教えているのだ。人が完璧に他人を理解できることが出来れば戦争はなくなるといった人が居た。確かに人は戦争をやめるかもしれない。孤立と言う手段を持ってだ。
 嘘で世界はバランスを保っている。嘘で世界は壊れている。この儚いバランスで世界は成り立っている。だからあの二人の言葉も嘘かもしれない。そう思いたかったが、彼女らのあの言葉は、完璧に世界の理を無視していた。つまりはアレは真実だろう。俺の言葉に涙を流したのも、俺にビンタをしたのも、それはきっと彼女らの本心なのだ。他人に本心をさらけ出してしまうなんて恐ろしい行為を彼女らはやってのけたのだ。だから俺はそれを真摯に受け入れるしかないだろう。
 恋を泣かすようなことは言わなかったはずだし、黒須さんにもぶたれてしまうようなことはしていないはずだ。それなのに彼女らは悲しみや怒りをあらわにして俺にぶつけてきた。と言うことは俺の『何もやっていない』と言う認識が甘いのだろう。きっと何かをしてしまった。そう考える以外に、この胸の痛みと頬の痛みの理由を知ることはないだろう
 結局二人を送り届けると言う当初の目的は達成できず、俺は逃げるようにして家に走った。
「おかえ」
 花梨の声を聞き終わるまでに俺は部屋へと駆け込んだ。理由は特にない。いや、理由ならあるのかもしれない。俺はただ、これがすべて夢ではないかと思ったのだ。だから俺は昨日と同じように自室の窓から隣の家を見た。
「黒須さん……」
 どうやらこれは悪夢なんかではなく、たちの悪い現実のようで黒須さんの部屋の窓は固く閉ざされていた。試しにノートの切れ端を丸めて投げつけてみたが反応はない。もっと硬いものをぶつければ派手な音が鳴るだろうが、それで黒須さんが出てきたところで俺はどうしたらいいのか分からないのでやめておく。
 冷えた夜風を誘い込む窓を閉め、ベットに倒れこむ。部屋の隅では、いつか見た蜘蛛が無事に巣を張っているのを見つけた。確かこの蜘蛛を見かけたのは俺と黒須さんが始めてあった日だったと思う。今思えば今日受けたビンタはあの日にもらうのが妥当だったのではないかと思う。どうして今頃になってこんなことになったんだ。もっと早くにこの関係が崩壊していたならば俺はすんなりとあきらめることが出来たと言うのに、今の俺にはそれすら出来そうにもない。
 ショートしそうな思考回路をフルに回転させて原因とその対処方法を探すが全くと言っていいほど答えは見つからない。それどころかヒントすらも一向に見つからない。考えても考えても答えの出ることのない思考は、まさに出口のない迷路のように永遠に続くのではないかとさえ感じる。やがて俺はまどろみ、そして意識を無に溶かした。
 
――その少女は、長い黒髪を携えながら僕にいつも笑いかけていた。
――その少女は、僕を夫にすると言っていつも恋と喧嘩していた。
――その少女は、僕が友達じゃ駄目かと聞いたら泣き出した。
――その少女は、僕が好きだよと言ったら少女は泣き止んだ。
 
 なんとも心地のよい目覚めだった。昔のたわいもないことを思い出しただけだったのだが、今まで自分が覚えていなかったことを思い出したのだから少し嬉しい。それが今の自分にどんな意味があるのかは分かりはしないが、自分でなくしていた記憶をとり戻したのだから俺自身が今必要だと感じたに違いない。
 やたらとしっかりと思い出すことの出来る夢をもう一度思い浮かべ、顔の見えない黒髪の少女に誓う。今日こそはうまくやろう。
 
 
 
「おはよう」
 朝、あーちゃん誓ったと言うのに俺のもくろみは難航していた。もくろみといっても、とりあえず話しようと言うくだらないものだったのだが、そんな簡単なことでさえ今日は出来そうにない。もうあきらめてしまおうかと思ったのだが、あーちゃんにうまくやって見せると誓ったのだ、しっかりとやらないといけない。たとえそれが挨拶を無視されるくらいに相手が俺のことを見えないフリをしていてもだ。
 
「恋」
 正直、俺はもう駄目かもしれない。
 こんなにもアプローチをかけたのは初めてだと思う。それだと言うのに二人は取り付く島もないと言った感じで完璧に俺のことを無視する。まさに俺がそこにいないと透明人間か空気のような扱いだ。
「お、お前いったいあの二人に何をしたんだ」
 それが分かったらこうして悩んでいないよ。分からないからこうしてただがむしゃらに声をかけているんじゃないか。
「さあ」
 二人が無視し続けているのは本当に俺だけで、今話しかけてきた藤村には普通に話をしている。たいしたことがないと思っていた存在でも、いざ失ってみるとその大きさに気づくって言うのはどうやら本当らしい。俺はクラスで一人孤立したかのような寂しさを覚えていた。
「め、飯を食べよう。し、白金も来いよ」
 俺達の異常な雰囲気を感じ取ったのだろう。藤村が気を利かせて何とか関係を取り持とうと昼食に俺を誘う。
「二人とも、一緒に食べてもいいかな?」
 いつもなら承諾なんてものは必要としてなかったが、今回は特別に必要だと思う。
「べつに」
「お好きにどうぞ」
 今日はじめて交わした会話がこれなのだから俺も泣きたくなる。まるで氷のような冷たい視線で俺を射抜いた二人はそれ以降俺を見ようともしない。生きる感覚が全くしないまま、味のしない弁当を食べていると西条さんもいつの間にかクラスに来ており、いつも通りのいつもとは違った昼食が開始された。
 
「それで?」
 しかし、そんな昼食も長くは続かず、この異常な空気に耐えられなくなった西条さんが口を開く。
「白金は何をしたの」
 どうしてこうも俺が何かをしでかしたと決め付けるんだろうか。まぁその考えは間違っていないので何もいえないのだが、俺はそんなにも何かしでかしそうなのか?
「とにかく、このままでは美味しい物も美味しくなくなります。ちょっと、二人ともこっちに来なさい」
 恋と黒須さんを半ば強制的に連れて行った西条さんを見送り、俺はため息を一つついた。これはもう西条さんに期待をするしかない。
「そう上手く行くかしら」
 今日も西条さんと一緒に来ていた青葉さんは俺に不吉な言葉を侮蔑の笑みと共に送ってくれる。出来れば青葉さんの思う方向に事が流れないことを祈る。
 しかし、現実と言うのはやはり無常である。まさにミイラ取りがミイラになるとはこのような状況を言うに違いない。見事俺を無視するようになった西条さんを見て、俺はまたため息をこぼした。青葉さんを見ると、やはり笑っていた。
 ため息一つつくと幸せが一つ逃げると言うが、幸せになるためにはため息を一つ我慢すればいいのだろうか。そんなくだらない考えをめぐらせることしか出来なくなってしまった俺は、くだらないと思いながらものど元まででかかったため息を一つ我慢してみた。これで何かいいことが起こると良いのだが。
「友達じゃ嫌なの!」
 ふと飲み込んだため息の後に今日の夢を思い出した。確か俺が僕だった頃にあーちゃんに友達じゃ駄目かと聞いたときの答えだった。当時の僕はただ漠然とお嫁さんと言うのはどんなものか分からなかったので、自分が分かる一番親しい仲という友達と言うくくりが良かったのだが、それはあーちゃんにとってとても重要なことだったらしい。恋のほうをちらりと盗み見して少々考え込む。まさかあの時のあーちゃんような事をこいつは言い出すのではないか。そんなことが頭の隅をよぎった。
「まさかな」
 そうは言ってみたものの、試してみる価値はあるだろう。成功する確率はもはやゼロに等しいが、やらないよりやって後悔したほうがいい。
「恋のことは好きだよ。うん」
 自分でもかなりやけくそだったのだが、どうせ誰も聞いていないだろうから多少気は楽だ。もしこんな台詞を聞かれていたら俺は発狂してしまうかもしれない。それにもし聞いていたのなら恋に何をされるか分かったものじゃない。
「なんですって?」
「なんて?」
「なに?」
 しかし、困ったことに恋一人どころか三人にばっちり聞こえていたようで物凄い勢いで身を乗り出している。恋や西条さんはこんなことをしても特に違和感がないのだが、まさか黒須さんまでもが身を乗り出すとは、俺がいったい何をしたと言うのだ。
「誰が」
「誰を」
「好きだって?」
 物凄い剣幕で迫ってくる三人に生命の意気すらも感じてしまったが、なんとなく三人の聞きたいことは分かった。どうやら運の悪いことに俺の感は当たっていたらしい。昔ならばこの後に好きだといえばよかったのだが、今はそんなことを言えば俺の頭が吹き飛ぶに違いない。
 相変わらずの形相で俺に迫る三人から逃げるようにじりじりと後退していくが、やがて後ろにも進めなくなってしまう。後ろに進めないのならば前進するしか道はない。俺は覚悟を決めて息を吸い込んだ。
「俺は恋が好きだ」
 息を吸い込んだ割には物凄く小さな声だったのだが、俺の目の前に居た三人を黙らせるには十分な威力だったらしく、一人は目に涙をため、一人は力なくその場に立ち尽くし、一人は呆然としていた。なんとも滑稽な風景だったが、これでいいのかと思い始める。勢いで言ったはいいが、二人のフォローのことを考えていなかった。
「もちろん黒須さんも西条さんも同じくらい好きだよ。うん」
 俺の考えたフォローに何故か三人とも正気を取り戻したようで、俺を睨んでいる。
「さ、三人とも大事な、友達以上の存在……そう、家族だよ!」
 これで間違いないはずだ。確かあーちゃんのときも友達も親しい関係というと家族しか思い浮かばなかった当時の僕は友達じゃなくて家族になろうと言ったのだった。するとあーちゃんはもっと泣いたが、その涙は悲し涙ではなかった事を覚えている。だからこの三人にも同じ事でいいと思った。それだというのにだ、何故か俺は殴られていた。
「馬鹿」
「鈍感」
「甲斐性なし」
 三人から暴力と言葉の暴力を受けた俺はもう折れてしまいそうだった。丁度後ろは窓だったこともあり、このまま飛んでしまおうかと思い始めた。何がいけないと言うのだ。俺はこんなにも三人を思って行動したと言うのに。
 三人を見ると互いに顔を見合わせてため息をついている。幸せが逃げるぞ。
「ま、あんたがこうなのは昔からだし」
 先ほど俺の頬を思い切りぶったその手を俺に優しく差し伸べる恋。罠なのかと一瞬疑いはしたが、見れば西条さんと黒須さんもあきれたようすで俺を見ているし、よくわからないがとりあえずは俺は上手くやれたみたいだ。
 そのまま差し伸べられた恋の手を取り立ち上がる。頬は昨日の三倍の痛みを訴えてジンジンとしていたが、それよりも今はきちんと三人と会話が出来ると言う喜びをかみしめたい。
「俺は三人が好きだからね」
 その言葉に三人はまた俺を睨んだが、あきらめたように振り上げた拳を下ろした。
「ちっ」
 丁度三人が拳を下ろしたとき、青葉さんの舌打ちが聞こえてきたような気がした。なんて人なんだ。
「さて、今日も二人三脚の練習するわよ」
 青葉さんに何か言ってやろうかと思ったのだが、それも恋に阻まれてしまう。他の二人より少しだけ上機嫌なのは何故だか分からないがとりあえずはこれで障害は一つ乗り越えれたと言うことだ。残る障害は後二つ。可憐さんと麗子さんへの返事と体育祭だ。とりあえずは今は目の前に迫っている体育祭のことに集中しよう。そうだこれは仕方がないことなのだ。だからこれは決して逃げではないのだ。
「ほらほら、さっさといくよ、私の夫さん」
 からかうよう残る二人に舌を出し、俺の手を引きながら廊下に飛び出した恋にあきれながらもその力に身を任せる。まだ恋は俺の嫁になるなんていっているのか、俺の嫁なんて何もいいことはないだろうに。
「その手があったか!」
 背後から聞こえてくる意味の分からない叫びに首をかしげながら、俺は恋の走る未来へとただ引きずられて行った。

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