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第四十八話〜逃走

「殺してやるぞおぉぉ」
 雨の中でもしっかりと聞き取れるような大きく、異様な殺気を含んだ声。
「神条さん! 神条さん!」
 そんな声にあせる俺がいくら揺さぶっても動く気配はない。おごりはなしか、残念だ。
「いくぞ」
 海人さんが俺を引っ張り上げてから走る。
「詩織!」
「はーい」
 この緊迫した空気だというのに相変わらずのんきだ。俺達が走って逃げるとき、ちらりと後ろを見ると、鬼は足を引きずりながら俺達、いや『俺』を追って来ていた。もちろん笑顔で。

――走って、走って、走って逃げる。
――引きずり、引きずり、引きずり追いかける。

 両者の間など、すぐに開くはずだったが。今は縮まる一方だった。何故なら、俺達は動けないからだ。
「崖だと!?」
 大西が立ち止まり、ヒステリックに叫ぶ。そうやって立ち止まっている間にも笑い声は近づいてくる。
「糞」
 俺は爪を噛みながらつぶやく。まだ死ぬわけにはいかない。目の前に憎い復讐対象がいるというのに何もしないまま死ぬなんて出来ない。いや、してたまるものか。こいつ以外には全員制裁を加えた。残るのはこいつだけなんだ。父を殺したこいつだけなんだ。ならいっその事こいつを今、崖から突き落とすか?いや、それはまずい。人が、詩織見ている。何を考えてもダメだ。一体どうすればいいんだ。
「雄介君」
 海人さんが俺のところまで来て話しかける。たぶん、この先どうするかを聞きに来たのだろう。
「私があのハイジャックをどうにかしましょう」
 しかし、海人さんが言ったのは予想外の言葉だった。どうにかする?そんな事がただの民間人に出来るというのか?
「私はね感染しているんだ」
 いきなりそんな事をいい始める海人さん。何故このタイミングでそんなことをいうのだろうか?
「それなら俺だって――」
 なぜか分からないが自分もそんなことを告白してしまう。そんなに海人さんに居なくなってほしくなったのだろうか?
「言わなくていいさ雄介君」
 俺の言葉を最後まで聞くことなく、海人さんは俺の言葉をさえぎる。言わなくていいって、この人は知っていたのか。
「私の印は足にあるんだけど見せるのも面倒だし、いいだろ?」
 そう笑顔でいう海人さん。足か……それなら水虫かと思って詩織も見逃すはずだ。
「それに君の名前も偽名だろ?」
 この人はどこまでわかっているんだ。感染は詩織のように何かしらの特徴を見つけたなら説明がつくが、名前のほうはそうは行かないはずだ。
「なんでそんな事を?」
「なんでって、君はあの事件と苗字を重ねたかったようだが、あの事件の生き残りは夫一人だったからだよ」
 焦って聞く俺に海人さんはすらすらと答えていく。事件のこともそういえばそうだったような気がする。
「私はね昔、軍に居たんだよ」
 また、いきなり話が飛ぶ。海人さんの目は遠くを見ているようで何かを思い出しているようだった。
「しかも特殊部隊。これでも隊長だったんだよ」
 そう笑いながら語る海人さんだがどうにも信じられない。普通に軍隊に居たぐらいがどうしたと思ったが、特殊部隊。しかもそれの隊長となればそれはもうすごいんだろう。そういえばこの人の気配の消し方や敬礼にたいする注意は普通じゃなかった。ような気がする。
 感染の話も、偽名の話も、軍隊の話も、嘘のような話だが、信じる以外に道が有るというのだろうか?今の俺には到底思いつかないので俺は素直に海人さんに任せることにした。
「でもどうやって?」
 相手は負傷しているものの、武器を持っている。それに対して、こちらの武器は脂肪くらいだろう。脂肪を使った特殊能力があるのなら別なんだが残念ながらここはそんなメルヘンな世界じゃない。
「君はちょっと預かってくれるだけでいい」
 そういうと海人さんは指にしていた指輪を渡してくる。なぜかは分からないが。
「これは結婚指輪でね。私にもしもの事があったらこれを妻に渡してほしいんだよ」
 そんなことをいう海人さんだかその台詞はあれではないだろうか?まるで今から死ぬ人が言うような台詞だ。
「でも、海人さんの奥さんなんて知らないのにどうやって渡すんですか」
「それは戻ったときに話す、いやこの紙に全部書いてあるから後で見てくれ」
 そう笑顔で言い残すと海人さんは今まで走っていた道を逆戻りする。
「海人さん」
 そういって俺はずっと大切にしていたものを投げる。
「おっと」
 海人さんはそれを上手にキャッチして見つめてつぶやく。
「いいのかい?」
「いいですよ。そんな物騒な物俺には使えませんし。それに俺の好きにしていいと田中さんもいってましたしね」
 俺が渡したのは田中さんから好きにしていいと、いわれた銃だった。理由は単純だ、海人さんに生きて帰ってほしい。ただそれだけだ。
「じゃあ遠慮なく」
 そういって海人さんは走り出そうとしが、その足は数歩程度しか進まなかった。
「これは残念」
 足を止めた海人さんの前方には、笑顔のままの鬼が立っていた。
「雄介君。君達はあの浜に逃げるんだ」
 そういって海人さんは少し遠くにある砂浜を指す。
「ここは俺に任せて先に行け」
 俺が渋っていると、海人さんの今までとは違う口調で俺に叫ぶ。情けなくもそれに圧倒された俺は、仕方なく砂浜に向かう。
「いくぞ詩織」
 詩織を抱えて走り出す俺。もちろん後ろには大西もついて来ている。と、後ろで何発か銃を発砲したような音が聞こえる。
 大丈夫。きっと海人さんなら大丈夫。今の俺にはそう信じて砂浜に走ることしか出来なかった。

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